泡沫の底、幸せな夢を。

【1】
 来週提出のレポートは終わった。仕事の依頼メールも仕分け終わった。
 そして、企画書作成も、これで全部。
 エンターキーを軽く叩いて背伸びをした瞬間、手元のスマホがあまり見慣れない人物からの着信で震える。

「……もしもし、こはね?」

 こはねから電話が来ることなんてそう多くはない。遊びの誘いならいつも一緒にいる杏から来るし、個人的に何かやりとりをすることもそうそうない。……だから、彼女がわざわざ電話してくるような状況は、1つしか思いつかない。

『あっ、遥ちゃん。ごめんね、みのりちゃんがまた、酔い潰れちゃって……』

 ……ほら、やっぱりそんなことだろうと思った。

「分かった、みのりが迷惑かけちゃってごめんね。すぐ迎えに行く」
『うん、分かった。いつもごめんね、遥ちゃん』

 通話を切って、一つ小さくため息。
 悪い人だっているんだから、と叱った後はちゃんと我慢してくれるようになったけど、未だに友達だけの場では気が抜けてしまうらしい。こはねたちはちゃんと忠告してくれているのも知っている手前、これ以上あまり強く言うこともできないのが正直なところだった。
 ……そもそも、恋人でもなければ同棲しているわけでもないのだ。成人女性の宅飲みに、本来外野の人間がいちいち口を出す資格なんかもないだろう。
 まあ、それならそれで本当は、私が迎えに行く必要なんかないのだけれど……。

「……カーディガンは、2枚あった方がいいかな」

 それでもこんな役回りを演じているのは、きっと純粋な親切心だけじゃない。


【2】
 学生マンションの、302号室。流石に通い慣れてきた部屋のインターホンを押すと、少しドアの向こうが騒がしくなった後、これまた見慣れた3人が顔を出す。

「あれ〜はるかちゃんだ〜!」
「……ごめんね桐谷さん。もう少し私たちがしっかりしてれば……」
「何度も止めようとしたんだけど……」

 紅潮した顔をふにゃりと崩してこちらへ手を伸ばすみのりと、そんな彼女を支えながら申し訳なさそうに目を伏せる、日野森さんとこはね。もう見慣れた光景だ。今更こんなことで動揺はしない。

「大丈夫、気にしないで。2人が頑張ってくれてることは私も分かってるから。むしろ、いつも迷惑かけちゃって本当にごめんね。……ほらみのり、もう帰るよ」
「えへへ〜はるかちゃんだぁ〜」
「はいはい、遥ちゃんだよ。遥ちゃんと一緒に帰ろうね、みのり。……じゃあ2人とも、またね」

 むにむにと顔を触ってくる彼女にどうにか靴を履かせて、風邪をひかないよう持ってきたカーディガンを着せ、2人に見送られながらマンションを後にする。本当はみのりの代わりに私が片付けも手伝った方がいいけれど……一度それをしようとした時、みのりの激しい妨害によりかえって片付けが進まない事態になった。その日から私の任務は、一刻も早くこの「片付けを邪魔する酔いどれ」をこはねの家から引き剥がすことに変わっている。

「みのり、何度も言ってるけどこはね達に迷惑がかかるまで飲んじゃ駄目」
「はーい!」
「家だからいいって訳じゃないんだよ? こうやってふらふらになってるところをファンの皆に見られることだってあるんだから」
「はーい!」
「それに転んで怪我でもしたら大変だよ。いつもこうやって私が迎えに来れる訳じゃないんだから」
「はーい!!」

 ……返ってくるのは生返事ばかり。本当は、もっときつく叱った方がいいのだろう。みのりだって物分かりの悪い子ではないのだから、酔いが覚めている時にちゃんと言えば、こんなことにならないように自分で気を遣えるはずだ。
 分かっててそれができないのは、恋人でもないのに束縛が強すぎるんじゃないかとか、みのりの息抜きの場を一つ奪ってしまうんじゃないかとかいう不安もあるけれど。

「みのり、聞いてる?」
「はーい!」
「みのり」
「はーい!!」
「……」

「……ねえみのり。みのりはさ、私のこと、好き?」

「うん。わたしは遥ちゃんのこと、大好きだよ」

 返ってきたのは、期待していた生返事じゃなくて、想いの外、まっすぐと私を刺す言葉。秋風に運ばれ香るシトラスの匂いは、まるでみのりの笑顔から咲いたようにも感じられて。
 ——ああ、そうだ。一番の理由はきっと。
 そんな薄っぺらな事実でも……寒くて泣いちゃいそうなこの心が、ほんのちょっとだけ救われる気がするから。

「……みのり、よそ見してたら転ぶよ」
「はるかちゃんは〜? はるかちゃんはわたしのことすきー?」
「ぺたぺた顔触らないの。前見えないでしょ」
「ねぇ〜! はるかちゃんは〜!?」

 これだけ気を遣って介抱しているんだから、多少の意地悪くらいは許してほしい。
 たとえ忘れると分かっていても、あなたの心を裏切りたくはないのだ。


【3】
「みのり、汗流した方がいいよ。落ち着いたらシャワー浴びておいで」
「はるかちゃんも、いっしょにはいろ?」
「……うん。やっぱり今日は無理そうだね。明日にしよっか」

 とりあえず何か飲ませた方がいいだろう。半ば軟体生物と化したみのりをソファに座らせ、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
 みのりの家ではない。私の家だ。本当はみのりの家に直接帰したかったけど、それはできなかった。私の家の方が少し近かったとか、いつになく酔いが回っているようなので勝手が分かる場所で介抱した方がいい気がしたとか、色々理由はあるけれど、一番の理由は——

『はるかちゃんのいえにいきたい』
『は!? もう夜遅いし、そんな時間はないよ!?』
『やだー! はるかちゃんのおうちにいきたいのー!!』

 ——彼女がそんな、今まで一度も言ったことがないような駄々をこねだしたからだ。
 ……本当に、私の身にもなってほしい。そんなことないって分かってるのに、そんなこと駄目だって分かってるのに、勘違いしそうになってしまう。
 そうだ。私がみのりを家に上げたのは、私の家の方が近くて、私の家の方が介抱がしやすくて、みのりが私の家に来たいと駄々をこねたからだ。……やましい気持ちなんて、欠片も……。

「ほら、みのり。これ飲んで。ちゃんと水分も取らないと明日に響くよ」
「ん……」

 2つあるカップのうち片方をみのりに渡せば、小さく頷いて素直に麦茶に口をつける。外で散々騒いで疲れたのか、家に着いてからのみのりは随分と大人しくて素直だった。
 少し面食らったところはあるけれど、お陰でひとりでに揺れ動く心が、少しずつ落ち着いていく。静かに遠くを見つめるみのりの横で、私もカップに口をつける。心地よい冷たさが喉を通って滑り落ち、じんわりと胸に広がる頃、みのりがぽつり、と呟いた。

「……遥ちゃんは、どうしてわたしのわがままを聞いてくれるの?」

 鎮まりかけていた心臓が、一際大きく跳ねた。心を見透かされている気がして、密かに隠そうとしたやましさを見咎められた気がして、ほんの少し、息が浅くなる。

「みのりが心配だからだよ。放っておくと、不安だから」

 嘘ではない。嘘はついていない。ただそうだと信じてほしくて、そうだと自分に言い聞かせたいだけだ。
 誤魔化すようにみのりの方を向けば、そこには変わらず遠くを見つめる彼女の姿があった。心なしか瞼を重そうにしながら僅かにゆらゆらと揺れるみのりを見て、一瞬胸を刺した恐怖が、ゆっくりと抜け落ちて消えていく。

「……ごめんね、遥ちゃん」
「謝らなくてもいいよ。……でも、今度からはもっと気をつけてね」
「うん、がんばる」

 頑張るって言ったって、明日には綺麗さっぱり忘れているのだろう。
 それが悪いことだとは思わない。悪いのはそれを分かってて言う私の方だ。全部消えると分かっているから、でも信頼を裏切る勇気はないから、こうして曖昧な意地悪でお茶を濁してる。ある意味、私が一番傍迷惑で、一番の駄々っ子だ。

「遥ちゃんも、わがまま言っていいんだよ……?」

 我儘なら、もう言ってるよ。
 あなたを悪い子に仕立て上げて、それっぽい言葉をかけている。無防備なみのりの姿を見て笑ってるの。こんな我儘なんてないよ。みのりの失敗につけ込んで、自分の心を慰めてるんだから。

 ……それとも。

「もっと、我儘を言っていいの?」

 返事はなかった。視線を向ければ、すぅ、すぅと規則正しい寝息を立てるみのりの姿。
 カップ、持ったままだと落として割っちゃうよ。なんて呟きながら、そっとカップに握られた手を解く。私よりほんの少し小さい、さらさらとした綺麗な手。解くだけだ。昔みたいにその手を握るには、私は臆病になりすぎてしまった。
 カップを2つ流しに置いたら、今度はみのりを抱き抱える。ソファなんかで寝たら身体を痛めてしまう。せめてベッドに寝かせてあげないと。

 一歩、また一歩、起こさないようにそっと踏み出す度、微かにシトラスが舞っていく。

 ……例えば。呼吸の度に揺れるその唇に、くちづけをすることができたなら。
 ……例えば。あのシングルベッドの上で、あなたと2人、一緒に眠ることができたなら。
 ……例えば。あなたのこのシトラスの香りを、私のもので、洗い流すことができたなら。
 ……例えば。あなたがそんな我儘を、許してくれるなら。


『わたしは遥ちゃんのこと、大好きだよ』

「……言えるわけないでしょ、そんな我儘」


 分かっているのだ。分かっていたいのだ。あなたと私の好きは違うって、あなたのそれは憧れで、友情で、信頼だって。
 だから、私はそれに報いたい。私の好きを知ってくれなくてもいいから、あなたの好きに、私は応えたい。
 だから私の我儘は、眠るあなたをベッドに寝かせる、そこまでが精一杯。

「……おやすみ、みのり」

 最後にそう声をかけて……間違いが起きないように、私は寝室を後にした。


【4】
「——本当に、本当に申し訳ございませんでした…………!!」
「だ、大丈夫。本当に気にしてないから……」

 翌朝。
 現在私は酔いが覚め全てを理解したみのりから、土下座での謝罪を受けている。

「酔って遥ちゃんの家に押しかけた挙句そのことを全く覚えていないなんて……一体どれだけわたしは遥ちゃんに迷惑をかければ……一生の不覚です……!!」
「う、うん……だから私は別に大丈夫なんだけど……でも、確かに今後はちょっと気をつけた方がいいかもね」
「うん……今後はあんまりお酒は飲まないようにするね……」

 ……そっか。お酒、控えちゃうのか。
 なんて考えてしまう私は、やっぱりひどい人間だ。

「……そうだ。せっかくだから朝ご飯も食べていく?」
「い、いやいやいやいや!! いっぱい迷惑かけた上に朝ご飯までご馳走になるなんて!! 至れり尽くせりすぎてバチが当たっちゃう!!」
「そっか。じゃあシャワーはどうする? 昨日は入る前に寝ちゃったし、浴びといた方がいいと思うけど……」
「あー……ううん。それもお家に帰ってから入るよ」

 ささやかな抵抗も、素面のみのりにはするりと躱されてしまう。
 ……こんなんなら、昨日もっと我儘を言っておけば……なんて、できもしないことをぼんやりと考えながら、身支度をする彼女を目で追っていた。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「……じゃあ、また練習の時に」
「うん! ありがとう遥ちゃん! またね!」

 そうしてみのりを見送って気が抜けた途端、不意に身体の節々が痛みを訴え出した。昨日は結局ソファで寝たから、かなり無理のある体勢になっていたのだろう。
 ……幸い、今日は何も予定がない。生活リズムが崩れそうではあるけれど、どうせだし二度寝してしまおう。

 ベッドに潜り込んだら、ふわりと香る、シトラスの匂い。

『……ねえみのり。みのりはさ、私のこと、好き?』

『うん。わたしは遥ちゃんのこと、大好きだよ』

 ——もう一度同じ質問をすることはできなかった。
 答えが変わってしまえば耐えられない気がして、「大好き」が上書きされれば泣き出してしまう気がして。

「……私だって」

「……私だって、大好きだよ。壊れちゃいそうなくらい、みのりのことが」

 でもその想いは、あなたのために隠し続けると決めたのだ。

 私に溶けては消えていく、あなたの微かな残り香だけが、本当の私を知っている。
 せめて夢では触れられるようにと、祈るように瞳を閉じた。

- Afterword -
2022/10/30 『prsk48hアンソロジートライアル#02』参加作品

48hアンソロジートライアル参加作品です。
この企画は与えられた2つの縛りを守りつつ、48時間で0から合同誌原稿を作る企画です。
どうしてそんな企画をしちゃったんですか? 健康に悪いからやめた方がいいよ??

原作では高校生の子たちだからこそ、少し未来の酒席の話とか、
そういう「原作ではきっと描かれないこと」を描きたくなることがたまにあります。
企画のルールに引っ張られた部分も多々ありそうですが、
お陰で普段はあまり書かない、大人の湿度を感じる作品になってるんじゃないかなと思います。