どろんこのまま、抱きしめて。

 みのりの口から、私の知らない名前が出ることが増えてきた。
 高校を卒業して同棲を始めてからは、特に。
「寧々ちゃんから次の公演のチケットをもらったの! 今度のお休みに一緒に行こう?」
 それと一緒に、みのりはどんどん力をつけていった。
 歌やダンスだけじゃない。トークも上手くなったし、できることも増えていった。
「この前奏さんにちょっとだけ曲の作り方を教えてもらったんだけど、しばらくしたら穂波ちゃんが来てびっくりしちゃった!」
 もう、みのりのことを「素人」だって笑う人はどこにもいない。本人だけは未だに追い付けている気がしないらしいけと——もう誰の目から見ても、彼女は正真正銘、トップアイドルの1人だった。
「これ? 志歩ちゃんたちのライブを見に行った時にボーカルの人とお話したことがあって、試しに借りてみたんだ。イオリさんって言うんだけど……」
 そうして、みのりの人は多くの人を惹きつける。数えきれないくらいたくさんの人が、みのりに力を、応援をくれて……そうして彼女はもっともっと、誰よりも高く、希望と一緒に宙を飛ぶのだ。
 ——それを私は、とても誇らしく思う。
 みのりなら、もっともっと高く飛べるって信じてた。きっとまだまだ彼女は飛ぶのだろう。そんなみのりの始まりであれたことが、そんなみのりの隣で一緒に踊れることが、私は本当に嬉しい。
 ——それを私は、少し悔しく思う。
 忘れかけていたけど、私は結構負けず嫌いらしい。これだけすごい成長と高い実力を見せつけられると、心の奥の炎が燃え盛ってくる。それに気付いたみのりの、昔は絶対しなかった眼にあてられて、愛莉に怒られるくらい駆け抜けてしまうことも少しだけ出てきた。
 ——それを私は、少しだけ不安に思う。
 高く飛べば飛ぶほど、みのりの身体にのしかかる「想い」は大きくなる。数えきれない応援は、裏を返せば数えきれない期待とも言える。
 それがいつかみのりの心を蝕んでしまわないか。それがいつか、彼女の翼を折ってしまわないか。みのりの強さを知っていても、それでも、少しだけ不安になってしまう。
 湧き出てくる想いが必ずしもポジティブなものだけではないことは分かっていた。それでも想像していたよりもずっといろんな気持ちに整理はついて、素直にみのりの力になりたいと思えることに、安心している自分がいた。
 ——例外は、一つだけ。
 みのりを見送る度に湧き出てくる……この泥のような何かだけが、私は未だに整理できないままでいる。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「ごめんね、遥ちゃん。今日お休みなのに起こしちゃって……」
「気にしないで、私が見送りたかっただけだから。今日は小豆沢さんと出かけるんだっけ?」
「うん! こはねちゃんおすすめのカフェに行って、その後一緒に服を見に行くの!」
 靴箱からブーツを出しながら、みのりが笑う。この笑顔は昔から変わらないけれど、その立ち振る舞いは昔から随分変わったと思う。髪は伸びたし、変装のために眼鏡やニット帽をよく被るようになった。それに少し落ち着きも出てきて……こうして横顔を眺めていると、なんだか見惚れそうになってしまう。
 変わっていくみのりを寂しく思ったことはない。髪が伸びても、落ち着いていても、みのりの在り方が覆るわけではないし、ただ、私の知ってるみのりが一つずつ増えることを嬉しく思っていた。
 ……おかしいのは、この泥だけ。みのりの口から小豆沢さんの名前が出る度に湧いてくる、この泥みたいな感情だけが分からない。
 油断すれば口から溢れてしまいそうな、気を抜けばみのりを呑み込んでしまいそうなそれが、どろどろと私にまとわりついて、気持ち悪い。
「遥ちゃん、どうしたの?」
「……ごめん、ちょっとまだ眠気が抜けてないみたいで」
「えっ? それならもっと寝てた方が……!」
「うん。みのりをちゃんと見送ったら二度寝しちゃおうかな」
 変なことを言ってみのりを困らせたくない。だからなんでもないふりをする。
 嘘をつくのは少しだけ上手くなった。それでも最近は口をついて何かが出てしまいそうで、それを必死に抑えることも増えてきたけれど。それでもまだ、大丈夫。
「それじゃあ、いってきます!」
 私の目を見て、みのりが笑う。太陽みたいな、なんていうのは月並みな表現かもしれないけど、とっても眩しい笑顔。
 本当に、みのりは笑顔が似合うな。きっとこの後は小豆沢さんにもいろんな表情を見せてあげるんだろう。きっとそのどれもが可愛い、素敵な笑顔で。私はそれが、それが……。

 少し、■■■■。

「……えっ?」
 身体が跳ねたと思った時には、ドアを開けようとするみのりの手を握りしめていた。みのりが目を丸くしてこちらを見つめている。
「は、遥ちゃん?」
「ご、ごめん、これは、えっと……!」
 慌てて手を離して誤魔化そうとするけど、全く言葉が出てこない。自分でもなんでこんなことをしたのか全く分からなくて……ただ恥ずかしさと申し訳なさで、涙目のまま顔が赤くなっていくだけだった。
 みのりは、そんな私を見て少し考え込んで。スマホで何かを打ち込んだと思ったら……おもむろにブーツを脱ぎ始めた。
「み、みのり? どうしたの、忘れ物?」
「こはねちゃんにお願いして、お出かけは今度にしてもらったの」
「えっ……!? そんな、どうし……」
 そう疑問をぶつけるより早く。飛び込んできたみのりに、強く、強く抱きしめられた。
「あっ……え……っ?」
「遥ちゃん、最近なんだか元気がなさそうだったから……。遥ちゃんが大丈夫って言ってたから何も言わなかったけど、さすがに放っておけないよ」
「……気づいてたの……?」
「もちろん! 遥ちゃんのことなら何でも分かるよ!」
「……でも、せっかくの予定が……」
「元々、こはねちゃんと『今日は早めに帰りたいね』って話してたの。杏ちゃんも今日はお休みみたいだから、早くお家に帰って一緒に過ごそうって。だから大丈夫! ……それより……」
 抱きしめられてて、顔は見えない。
 だけどきっと、すごく真剣な目をしてるんだろうなってことは、分かった。
「何があったのか教えて、遥ちゃん。わたし、遥ちゃんの力になりたいの」
 ……みのり、こんな声も出せるようになったんだ。その知らない声が、私だけに向けられた想いが、悲しくて、嬉しくて、恨めしくて、優しくて——遂に飽和した心の泥が、ぽたり、ぽたりと零れ出す。
「……私にも、分からないの」
「えっ?」
「みのりがどんどん素敵なアイドルになっていって、嬉しくて、ちょっと不安だったの。ライバルとして少し悔しくもあって、それで自分の気持ちに整理がついてたはずだったの」
「……」
「でも、一つだけ、この気持ちだけ分からないんだ。みのりが他の人の話をする度、嬉しいのに、楽しいのにすごく苦しくって、それがすごく気持ち悪くなって」
「遥ちゃん」
「みのりがたくさんの人に愛されて嬉しいはずなのに、みのりが遠くに行っちゃう気がして、誰かのものになっちゃう気がして、だって、だって——」

「みのりは、私のものなのに……!!」

 ——ああ、やっと分かった。
 結局私は、この子を独り占めしたかったんだ。
 みのりはアイドルなのに。みのりは皆のものなのに。同じアイドルのくせして、私だけのみのりでいてほしかったんだ。みのりはどこまでも高く飛べるのに、そんなみのりを自分の鳥籠に閉じ込めようとして。本当に最低で、気持ち悪くて、なのに。
 ……なのにどうして、こんなに強く、抱きしめてくれるの……?
「……心配しなくても、わたしはいつでも、遥ちゃんのものだよ」
「……でも」
「確かにアイドルとして皆に希望を届けたいって思うし、そのためにたくさん勉強したいって思ってるよ。でもそれと同じくらい、遥ちゃん一人に笑っててほしいし、泣いてほしくないし、ずっと一緒にいたい!って思ってるよ!」
「……本当に?」
「うん! ……あっ、でも最近お出かけばっかりで全然一緒にいられなかったし、あんまり信じてもらえないよね!? えっと……だから……はい!!」
 そう言って突然廊下に倒れ込むみのり。すっごく真っ直ぐな目でこっちを見てるけど、全く意図が読めない。
「えっと、みのり……それは……?」
「わたし、今日は一日遥ちゃんの言いなりなので!! 煮るなり焼くなり好きにしてください!!」
 ……それ、「煮るなり焼くなり好きにしろ」のポーズなんだ……。
 予想だにしなかった行動にびっくりしつつも、みのりの優しさと本気はちゃんと伝わってきて……ゆっくりと、私の泥が引いていく。
「ふふっ……もう、本当にみのりはずるいなぁ」
「えっ、ずるい……!?」
「でもそっか……言いなりになってくれるんだ……じゃあ早速命令させてもらおうかな」
「うっ……お、お手柔らかにお願いします……!」
「うん、それじゃあ……」
 そうして、同じように倒れ込んで、ぎゅっと、みのりを抱きしめる。
「……もうしばらく、こうさせてほしいな」
「えっ、そんなことでいいの……? それにここじゃフローリングだし痛くなっちゃうんじゃ……」
「ううん、大丈夫。今、こうしていたいから」

 相変わらずみのりは温かい。少し緊張した顔のみのりが、さっきの言葉を信じさせてくれて、今更になって嬉しくなってきた。
 ごめんね。明日になったらまた元通りになるから。皆に希望を届けるアイドルに。アイドル花里みのりを応援できる私に戻るから。……だから今日だけは、あなたの言葉に甘えて、ひとりじめさせて。

- Afterword -
2021/10/30 「第2回akmh覆面小説企画」参加作品

akmh覆面小説企画に投稿させていただいた作品です。
他作品に比べて行が詰められているのはカモフラージュのためです。個人的にあまり好みではありませんが……。
特に第2回の作品は、こういった擬態やカモフラージュを試みた作品が多めになっています。

本文もそれなりに好きではありますが、特にこの作品で気に入ってるのはタイトルです。
こういったワードセンスは今ではなかなか出せない気がしています。
過去の私に負けないように、今後も研鑽を積んでいかなければなりませんね。