Havfrue
【1】
恋をした。
叶わない恋だと、分かっていた。
まっすぐな眼をした子だった。まっすぐな想いを持った子だった。
その強さと優しさが眩しくて……気づいた時には、彼女にどうしようもなく惹かれていた。
最初は私のファンとして。次は大切な仲間として。そしていつからか、一人の女の子として。
あの子と手を繋ぎたい。あの子と一緒に夜を超えたい。あの子の、一番好きな女の子でいたい。
泡のように生まれる「いたい」が、浮かんできては弾けて消える。積もり積もっていく残骸は、吐き出すこともままならなかった。
吐き出したなら、きっと私は。
「アイドル」ではいられなくなる。
アイドルじゃなきゃ希望を届けられない。アイドルじゃなきゃ、私は私でいられない。
それに、みのりは「アイドルの私」に憧れてくれたんだから……アイドルであることを辞めてしまったら、みのりはきっと、私のそばからいなくなってしまう。
だから私は、この海から出られない。
好きだったはずの水の世界は、いつの間にか息苦しく私を包む監獄になって……口元から出た言葉にならない「いたい」が、泡となって浮かんでは割れた。
【2】
この気持ちが憧れとは違うことに、気付いたのはいつからだろう。
はじめは、遥ちゃんが隣にいてくれるだけで嬉しくて、頭がおかしくなっちゃいそうだった。
だんだんそれが幸せな日常になってきて、ちょっとのことで気絶しちゃいそうになることも、少しずつ減ってきた。
そしていつの間にか……遥ちゃんの一言一言、一歩一歩に、心が掻き乱されるようになっていた。
遥ちゃんは、優しい。誰にでも手を差し伸べてあげられる。わたしはそんな遥ちゃんが大好きで、大好きだったはずなのに、今はそれがもやもやしてしょうがない。
遥ちゃんは、真面目。アイドルに本気でどんな努力も忘れない。わたしはそんな遥ちゃんが大好きで、大好きだったはずなのに、今はそれが不安でしょうがない。
遥ちゃんは、可愛い。アイドルとしての遥ちゃんも、ペンギンに癒される遥ちゃんも。わたしはそんな遥ちゃんが大好きで……大好きだったはずなのに、今はそれを独り占めしたくて、しょうがない。
遥ちゃんは、みんなのアイドルなのに。
それに、わたしだって、もう――。
ガチ恋、なんて言葉は聞いたことがあった。アイドルに恋をしてる子なんていっぱいいた。それを悪いことだとは思わなかった。人を好きになることは素敵なことだって、遥ちゃんがわたしに教えてくれたから。
なのに胸がずきずき痛んでしょうがない。息が詰まってどうしようもない。遥ちゃんを好きでいたいわたしと、遥ちゃんとアイドルでいたいわたしが、わたしの心をずたずたにする。
——きっと海の景色を知らなかったら。救ってくれたあなたを夢見る、無知な王子でいられたのに。
どんくさいわたしは今日も、光の海で溺れている。
【3】
「……みのり、どうしたの?」
「えっ?」
聞き慣れた遥ちゃんの声で我に返る。
いつもの屋上、練習着。不思議そうな顔の遥ちゃんが、わたしを覗き込んでいた。
「ごめん、ちょっとうたた寝しちゃってたみたい」
「そっか。疲れてるんだったら明日に回してもいいけど……」
「ううん、大丈夫! やろう、遥ちゃん!」
少しだけしぱしぱする目をこすって、立ち上がる。
自主練を手伝ってほしくてわざわざ練習がお休みの日に来てもらったんだから、がんばらないと……!
「そう? みのりが頑張るなら、もちろん私は付き合うけど……」
「うん、お願いします! ストレッチは遥ちゃんが来る前にちゃんと終わらせたから、いつでも始められるよ!」
「分かった。それじゃあ、早速始めようか」
――遥ちゃんのスマホから曲が流れる。何度も聴いてきたそれに合わせてステップを踏む。すっかり日も長くなった空に、グラウンドから聞こえる遠い掛け声。いつも通りの屋上。いつも通りの日常。
わたしだけが、いつも通りでいられない。
うまく動けてる自信がない。うまくごまかせてる自信がない。
呼吸ができないこの苦しさも、何かが突き刺さるこの胸の痛みも。悟られちゃいけない。わたしはもうアイドルだから。遥ちゃんと同じアイドルだから。
なのに、未熟なわたしは、いつも通りを演じることもままならない。
「みのり、大丈夫? 動きにいつものキレがないし、やっぱり疲れが溜まってるんじゃ……」
やっぱり、遥ちゃんの目はごまかせない。
いつもなら遥ちゃんの言葉に甘えて一度休むんだけど……「あなたが好きで、苦しいです」「あなたのことを思うと練習もままなりません」だなんて、言えるわけがない。
「ううん、大丈夫!」
「でも……」
「もうちょっとやってみて、それでも無理そうだったら終わりにするから! だからお願い、遥ちゃん!」
ここで甘えちゃったら、憧れの遥ちゃんの背中が、もっと遠くなる。
振り払うんだ、変な考えも気の迷いも。もっともっと練習して、もっともっと経験を積んで、遥ちゃんみたいな希望を届けるアイドルに——
「——あっ——」
焦って足がもつれて、バランスが崩れる。
地面に倒れるまでの瞬間がやけにゆっくりに感じられて、ああ、これは背中から叩きつけられるコケ方だなぁ、なんて思いながらぼんやりとしていた。
「——みのり——!!」
放っといても痛いだけなのに。一瞬の出来事、わたしに駆け寄る遥ちゃんは今まで見たことないくらい焦りと不安にまみれた顔で。……ああ、遥ちゃんに悲しい顔させちゃった……なんてちょっと後悔しながら——わたしたちは、2人重なるように倒れ込んだ。
「ご、こめんね、遥ちゃん」
視線を上げたら、すぐそこに遥ちゃんの顔があった。初めてみる遥ちゃんの表情からは、何を考えてるかは分からなかったけど——その瞳の熱に、怖いくらい惹かれてしまって。
きっと、わたしも同じ眼をしてる。20センチの距離、遥ちゃんの浅くなる息遣いに気付かないほど、わたしは鈍感ではいられなかった。
……ああ、わたしたち。
最初から、おそろいだったんだね。
委ねるように目を瞑って。
わたしたちは――
【*】
——ざぶん。
【4】
——とても、幸せな時間だった。
慣れ切ったはずの水の感覚が温かくて、差し込む日の光はキラキラと輝いて眩しかった。
見慣れた海の世界が、その色を変える。きっとそれは、貴女と一緒にいられるから。
絶対に叶うことはないと思っていた願い。絶対に重なることはないと思っていたこの右手の感触がとても幸せで……この時間が続けばいいって、私は、本気で思っちゃってたんだ。
——息もできずに海の中で溺れる、貴女の姿に気付くまでは。
【5】
わたしは、人魚にはなれなかった。
落ちるように沈んだ海の底。何度も恋焦がれたはずのその世界で、出来損ないのわたしは息もまともにできなくて。遥ちゃんの手を離さないように、ただもがくことしかできなかった。
怖い。人の住めない世界が怖い。息のできない感覚が怖い。遥ちゃんの手を離すのが怖い。人でも人魚でもいられなくなるのが怖い。
——怖い。
——わたしは、
何が、怖い?
元の関係に戻れないのが怖い?
知らない遥ちゃんを知ってしまうのが怖い?
周りに白い目で見られるのが怖い?
それとも、ファンでもアイドルでもいられなくなるのが怖い?
……少なくとも。
溺れるわたしを見てとても悲しそうに笑う遥ちゃんは……見ていてとても、苦しかった。
「ねえ、みのり」
人魚が差し出したのは、銀色のナイフ。
「私を殺して、みのりの手で」
……遥ちゃんの言いたいことは分かっていた。分かりたくなかった。わたしたちは結ばれない。わたしたちは一緒にはなれない。だってわたしたちは住んでる世界が違うから。「遥ちゃんのファン」でも「皆のアイドル」でもいられないわたしは、遥ちゃんと泳ぐことなんて、できないから。
だから、わたしが遥ちゃんを殺せば幸せだ。
わたしは遥ちゃんのことを諦められて、遥ちゃんは自分自身を捨てられる。この恋も死んで、明日からはまたいつも通りのわたしたち。それでおしまい。それが、きっとハッピーエンド。
だからわたしが終わらせなきゃいけない。わたしが殺さなきゃ、遥ちゃんは救われない。
なのに。
(わたし、は——)
一瞬だけ海の中で見た、幸せそうな遥ちゃんの顔が、忘れられない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
……結局わたしは、右手のナイフを使えなかった。
どこにもいけないまま、どちらにもなれないまま、肺から最後の空気を吐き出して、視界が暗くなっていく。
(はるか、ちゃん……)
「——ごめんね、みのり」
最後に水底で見た遥ちゃんは、泣いていた。
【*】
「桐谷さん、今日はお休みなんだって」
「体調不良って言ってたっけ? 珍しいよね、心配だな……?」
「うーん、きっと大丈夫だと思うけど……あっ、みのりちゃん!」
「……えっ? ……あっ、おはよう……」
「は、花里さん大丈夫!? すごく顔色悪いよ!?」
「うん、大丈夫……心配かけてごめんね……」
【6】
次の日、遥ちゃんは学校に来なかった。
真面目で体調管理もしっかりしてる遥ちゃんがお休み。1年生の間でちょっとした騒ぎになっていたらしい。
……わたしは、その日のことをあまり覚えてない。人魚でも人間でもなくなっちゃったわたしは、遥ちゃんのいない世界で静かに死んでいて。それを「遥ちゃんがいなくてショックで放心状態になってる」と解釈したクラスの皆は、気を遣ってそっとしていてくれた。
もし、遥ちゃんがこのまま学校に来なかったら?
もし、遥ちゃんがこのままアイドルを辞めてしまったら?
今のわたしは止められる?
どっちつかずのわたしに、それを止める資格は、あるの?
「何辛気臭い顔してるのよ……みのりらしくないわね」
帰ろうと靴を履き替えた時、後ろからそんな聞き慣れた声が聞こえた。
「……愛莉ちゃん?」
【7】
「……ごめんね、愛莉ちゃん」
「いいのよ。誰にだって体調を崩したり、不安定になったりする時期はあるわ」
夕方。昇降口でばったり会った愛莉ちゃんに引きずられるように学校近くのカフェへ。
わたしたちの目の前には、カプチーノが2つとチーズケーキが1つ。食欲が沸かないからケーキは食べられないけど……一口飲んだカプチーノの暖かさに、ほんのちょっとだけ泣きそうになった。
「雫ちゃんはよかったの?」
「今日は委員会と弓道部で忙しいって。ちょうどここを出ることには終わるんじゃないかしら?」
ケーキにフォークを刺しながら、愛莉ちゃんが返す。
いつもはもっと会話が続くのに、今日はすぐに途切れちゃって……でもその沈黙が好きなのか嫌いなのかも今のわたしには分からなくて、もっともっと頭がこんがらがってくる。
「……何も、聞かないの?」
愛莉ちゃんは、全部分かってるはずなのに。わたしと遥ちゃんの間にあったことも、わたしが考えてるよくないことも、全部。
——一瞬愛莉ちゃんは手を止めて、そして呆れたように笑う。
「聞いてほしいなら、いくらでも聞いてあげるわよ」
優しい言葉だった。
……少しだけ甘えちゃおうって思えるくらいには、とても優しい言葉だった。
「……愛莉ちゃんは。やっぱり、アイドルは恋をしちゃいけないって思う?」
「……早速難しい質問するわね……」
「ごめんね、嫌だったら気にしなくても」
「大丈夫。……まあでも、わたしも分からないんだけどね」
「愛莉ちゃんも?」
「そ。……わたしのことだから、『アイドルに恋はご法度!』って言うと思った?」
「……」
「まあ、その考え方も大事だと思うわ。アイドルは、ファンのみんなに夢と希望を届けるもの。だからアイドルは恋をしちゃいけない。ファンに、夢を見せ続けなきゃいけない」
「だったら」
「でも、そのアイドルの宿命を前に潰れちゃった子だってたくさんいる。アイドルである前に一人の人間だって言う人もたくさんいる。……そもそも嘘をついてまで見せる夢は、希望は、本当に素敵なものなのかしら?」
「……それは……」
「……だから、わたしには分からない。結局はその子自身の考えの話になると思う」
「わたし、自身の……」
「ねえ、みのり」
「……」
「みのりは、遥とどうなりたい?」
【8】
——わたしは。
わたしは、どうしたいんだろう。
愛莉ちゃんと別れた後も、ずっとそんなことを考えていた。
どっちつかずのままじゃ、わたしはいつまでも遥ちゃんと顔を合わせられない。
……でも。わたしは、どうしたら……。
時計の短針は1を指す。
暗い部屋。月の見えない空。秒針の音だけが響く。
人も、空も、街さえも寝静まった世界で、わたしだけが寝付けない。
……遥ちゃんは、憧れだった。
ずっと遥ちゃんの背中を追って生きていた。遥ちゃんみたいな、希望を届けられる存在になりたい。遥ちゃんみたいなアイドルになりたい。それは、あの日屋上で遥ちゃんに出会ってからも同じで。
いつの間にか、遥ちゃんはわたしの一部になっていた。
だから、わからなくなる。
わたしはどうしたいのか。遥ちゃんとどうなりたいのか。なんでこんなに息が苦しいのか。何が、わたしの首を絞めているのか。
答えを間違えたら、遥ちゃんも、わたしも泡になってしまう気がして。
……愛莉ちゃんも雫ちゃんも、きっともう寝ちゃってるだろうな。こはねちゃんもきっとそうだし、相談できる人もいない。
わたし一人で、なんとかしなきゃ……
『みのりちゃん!』
唐突に、電子音が静寂を裂いた。
枕元のスマホに映し出される彼女が、夜の暗闇をぼんやりと照らす。
「……ミクちゃん?」
『突然ごめんね。なんだかみのりちゃんに呼ばれたような気がして来てみたんだけど……もしかして寝るところだった?』
「……ううん、大丈夫だよ! むしろ悩み事があって寝付けなかったから……もしよかったら、ミクちゃんにもお話、聞いてほしいな」
『もちろん! それじゃあ、セカイで待ってるね!』
笑顔と一緒に、ミクちゃんの姿がふっと消える。
……そうだ。わたしにはもう1つだけ、頼れる場所があったんだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
午前1時のセカイは、とても静かだった。
誰かの歌声も、ステージを彩る照明も、楽しそうな観客も、何もない。今この場所に存在するのは、客席のパイプ椅子に腰掛けるわたしとミクちゃんだけだった。
「それで、どうしたの?みのりちゃん」
ミクちゃんの声色は、いつもより穏やか。もしかしたらオフモードなのかも。いつもよりほんのちょっとだけわたしの心も落ち着いて、少しだけ楽になったわたしは、包み隠さず想いを話した。
遥ちゃんのことが分からなくなっちゃったこと、あの日屋上で起こったこと。遥ちゃんが学校を休んだこと。愛莉ちゃんとのお話のこと。——自分が何をしたいのか、分からないこと。
それを全部静かに聞いてくれて。
しばらく考え込んだ後……ミクちゃんは、もうひとつわたしに疑問を投げかけた。
「みのりちゃんは、遥ちゃんのどんなところに惹かれたの?」
どんな、ところに?
「どんな……えっと……」
「ふふっ、ゆっくりで大丈夫だよ?」
「……そっか。ありがとう、ミクちゃん」
ゆっくり息を吸って、吐いて。
わたしの中の遥ちゃんを、一つ一つ、言葉にする。
「——遥ちゃんはね、とっても優しいんだ」
「それは、ファンの皆にってこと?」
「ううん。もちろんいつもファンの皆のことは考えてるんだけど……それだけじゃないの。困ってる子がいたら放っておけないし、よくないことにはよくないってちゃんと言えるし……わたしのことも、すごく大切にしてくれるの。わたしのために怒ってくれる。わたしのために笑ってくれる。……遥ちゃんはね、本当に皆に優しいんだ」
「それに、遥ちゃんはとっても真面目でかっこよくて……アイドルだけじゃなくて、勉強も、トレーニングも、体育祭の実行委員も、絶対に手を抜かないんだ。遥ちゃんは『自分で決めたことだから』って言うだろうけど……どんなことにも遥ちゃんは一生懸命で、そんな遥ちゃんを見てると、わたしもどんなことでも頑張れる気がするの!」
「あとあと! 遥ちゃんはとっても、とーっても可愛いんだよ! 甘いものを食べてる遥ちゃんも、ペンギンに出会ってふにゃふにゃになってる遥ちゃんも、ステージの上の遥ちゃんと同じくらい……ううん、それよりもっともっと可愛くて、ずっと見てたいなって思えて……!!」
「ふふっ、みのりちゃん、とっても楽しそう!」
「あっ、ごめんねミクちゃん! わたしばっかり喋っちゃって……!!」
「ううん、大丈夫! ……みのりちゃんは、本当に遥ちゃんが大好きなんだね」
「うん!わたし……」
……ああ、そうだ。
いろいろなことが絡みついて、一番大切なことを、忘れてた。
「……うん。わたしは、遥ちゃんが好き」
「それは、遥ちゃんがアイドルだから?」
「ううん。確かに最初は『希望をくれた憧れのアイドル』だったけど……遥ちゃんと同じアイドルになって、隣で『アイドルじゃない遥ちゃん』もたくさん見て……そうしたら、遥ちゃんのことがもっと好きになったんだ。昔テレビの向こうに遥ちゃんを見てなかったとしても。遥ちゃんと出会ったのが、アイドルなんて関係ないどこかだったとしても。……わたしはきっと同じように遥ちゃんに惹かれてたって、今なら言える」
「そっか」
「……遥ちゃんとキスをした時、確かに怖かったけど、息苦しかったけど、でも嬉しかったんだ。もっと一緒にいたかった。もっと遥ちゃんと手を繋いでいたかった。……なのにわたし……パニックになって、遥ちゃんのこと、傷つけちゃった……」
「……『本当にやりたいこと』、見つかったね」
「うん。ありがとう、ミクちゃん」
「行き先は分かる?」
「大丈夫。それに、分からないとしてもわたし一人で行かなきゃ」
「うん、そうだね。……それじゃあいってらっしゃい、みのりちゃん!」
「ありがとう、いってきます! ミクちゃん!!」
パイプ椅子を蹴っ飛ばして、セカイを駆ける。
不思議と何をすべきかはすぐに分かった。目指すは海、人魚の棲処。
本当の想いを、伝えに行こう。
【9】
――沈む。沈む。
積もり積もった言葉と想いに引かれて、独り、沈む。
みのりが深海に残したナイフは、結局私にも掴めなかった。
人魚にもなれない。人間にもなれない。おまけに死ぬこともままならない。……いつからこんなに中途半端になってしまったんだろう。昔はもっとちゃんと、人魚として泳げていたはずなのに。
「……さむい」
あの日の屋上、みのりの手はとても暖かかった。ああ、私たち、同じ気持ちだったんだって。それが、本当に嬉しくて。
でも、私たちは一緒にはなれなかった。アイドルとしての在り方が、憧れと偶像の在り方が……乗り越えるには、あまりにも高くて。
みのりは悪くない。選ばなきゃいけないのは私だった。ここに留まるのか、先に進むのか、私が決めなきゃいけなかった。
なのに。
私を殺して、だなんて。
あまりにも、我儘が過ぎる。
……私は、ここからどうするんだろう。
一瞬の迷いで一線を越えて、きっと、みのりの心も傷つけた。自分で決めたアイドルの在り方にも傷をつけて、中途半端なまま、どこにいくんだろう。
泳ぐ元気も、浮かぶ気力もない。
このまま海の底で泡にでもなれれば、これ以上誰も裏切らずに、悲しませずに、全部終わりにできるだろうか。
それは、悪くない。それが、一番幸せかもしれない。
……ああ、でも。
この海は、とても。
「……さみしい……」
【*】
「————」
その時、あの子の声が聞こえた。
【10】
「遥ちゃん!!」
暗い海の底で沈む、遥ちゃんの手を掴む。
息が苦しい。関係ない。暗くて怖い。関係ない。
遥ちゃんをまっすぐ見れなくなることの方が、今のわたしはずっと怖い。
「みのり……どうして……」
「遥ちゃんを、迎えに来たの! 2人で一緒に帰りたいから!」
「……駄目だよ……私は、中途半端になっちゃった……ファンとしてのみのりも、仲間としてのみのりも裏切って……このまま戻っても、皆に、みのりにどう向き合えばいいのか分からないよ……」
……遥ちゃんのこの目をわたしは知っている。
自分を責める目。何かを諦める目。誰よりも優しい遥ちゃんの目。……わたしが、絶対に放っておけない眼。
「ねえ、遥ちゃん」
だから、わたしは遥ちゃんの両手を握る。
ちゃんと想いが伝わるように。強く、強く。
「遥ちゃんがキスしてくれた時……わたし、とっても嬉しかったよ」
「え……?」
「遥ちゃんがわたしのことを想ってくれてるって伝わってきて、胸がぽかぽかして……わたし、とっても幸せだった。パニックになっちゃったから、中途半端になっちゃったから伝えられなかったけど、嫌なんかじゃなかったよ」
「……でも、それは」
「『憧れ』なんかじゃない」
「確かに最初は憧れだったの。遥ちゃんみたいなアイドルになりたい、遥ちゃんみたいに希望を届けられる存在になりたいって、それだけ夢見て手を伸ばしてた。……でも、隣でアイドルじゃない遥ちゃんをたくさん見て、もっともっと遥ちゃんのことが大好きになったの! だからもう『憧れ』だけじゃない! 今初めて出会ってたとしても、何度生まれ変わったとしても! わたしは、絶対に遥ちゃんのことを世界で一番好きになってた!!」
深海に差し込む光が、闇の黒に蒼を差す。
少しだけ明るく照らされた遥ちゃんの顔は、泣いていた。
「……『中途半端』なのは、わたしも一緒だよ。今でも本当は何が正解なのか分からない。それでも遥ちゃんに会いたくてここまで来たんだよ!」
「みのり……っ」
「曖昧なままで諦めたくない。わたしは遥ちゃんのことがもっと知りたい! 遥ちゃんにとって特別なわたしでありたい! わたしは、わたしは――」
「遥ちゃんと、もっともっと一緒にいたいの!!」
【11】
――世界が、砕けた。
ひび割れた世界から夕焼けが顔を見せて、冷たい海は天気雨となって落ちていく。
殻の外、変わらず生きる街の上、私たちだけが浮かんでいた。
「……私、2回もアイドルから逃げたんだよ……?」
「遥ちゃんは逃げてなんかないよ。一度辞めちゃったときも今も、遥ちゃんは誰よりもアイドルに真剣だった。だからわたしたち、こうやって宙に浮いてるんだよ」
「……アイドルは、恋をしちゃいけないって」
「うん、そこは、どうしよう……。でも遥ちゃんと2人ならきっとアイドルとの向き合い方も見つけられるし、2人じゃだめでも愛莉ちゃんと雫ちゃんもいるよ! ……だからゆっくり考えてみるのは、だめかな……?」
みのりの手はとても暖かかった。いつでも、私に力をくれる手だった。
……そうだった。私はこの手に……この、まっすぐな眼に、惹かれたんだった。
「……本当に、私でいいの?」
「うん! わたしは、遥ちゃんがいいの!」
夕陽に照らされて、天使が笑う。
……そっか。みのりが、そう言ってくれるなら。
「ねえ、遥ちゃんは――」
私の答えは決まってる。
ちゃんと向き合って、あの日の続きを。
問いかける声を遮るように……わたしはそっと、天使に口づけをした。
2021/07/25 個人誌『マジックアワーは君の色』掲載作品
初めての個人誌にて掲載した書き下ろし作品です。「Havfrue」はデンマーク語で「人魚」を表します。
人魚姫をモチーフに、幻想的な表現を目指した作品です。
創作始めたてであることに加え、小説だと難しい表現に挑戦していることもあり、
今見返すと拙い部分も多い作品ですね。
ただこういう表現に振り切った作品は今となっては逆にうまく書けないですし、
この時期だからこそ生み出せた作品というのはあるかもしれません。
拙いながらも、愛着がある作品です。ここが両立する作品は珍しいかも。