ライフメイカー

 初めに気付いたのがいつだったか、今となってはあまり覚えていない。最近のことなのか、あの日海の中手を引かれた時だったのか、或いは初めて屋上で出会ったあの時から、既に心惹かれていたのか。
 何度も触れてきた体温は、気付けば胸の奥で燃え盛り、私の一部になっていた。友達や仲間の枠を超えた、意識するだけで鼓動が早くなる感情。ほんのちょっと息苦しくて、だけど暖かい、この想い。初めて知った感覚だったけれど、これが何と呼ばれるのか、不思議とすぐに分かったのだ。

 彼女の声が。微笑みが。私の心臓を形作る。

 アイドルは恋をしちゃいけない。そのルールを破るつもりもなければ、その立場を投げ捨てて想いを伝えるつもりもなかった。私たちを繋いでくれた存在を、私たちを応援してくれたファンの皆を裏切るようなことは絶対にしない。
 でも、だからもし、私たちの旅路に終わりが来て、ステージを降りる時が来たのなら……。

 その時は、この秘め続けた想いを伝えよう。
 最高のライブのその先で、燃えるような、この想いを。

【1】
 ――遥ちゃんが、スランプになった。
 わたしたちに起こったことと言えば、言葉にすればそれだけのことだった。

 3月10日月曜日。MORE MORE JUMP!最後のライブまで、残り3週間弱。言葉では単純に表せることでも実際の状況はあまりにも深刻で……きっとその事実が、何より遥ちゃんを焦らせているんだと思う。

「……それじゃあ、もう一回やりましょ」

 1、2、3、4。愛莉ちゃんの合図で各々の振り付けを確認する。
 毎日屋上で練習できていたあの頃とは違って、大学生になった今では皆の予定を合わせるのも簡単じゃない。二十歳になったわたしたちの練習場所は、毎日夜に集まるセカイと、週2回だけ借りられるこの練習スタジオだけ。
 8拍かけて場所移動。これは実際には動かずに頭の中でイメージ。
 わたしたちには時間がない。今日が終われば残りのスタジオ練は5回。セカイで練習ができるとはいえ、ミクちゃんたちも普段ライブがある中でできる練習は決して多くはない。現実世界で、自分たちのリズムで練習できる機会は貴重で、だからこそこのスタジオ練は一回たりとも無駄にできない。特に、次のライブはわたしたちの卒業ライブ。ここで後悔を残したら、もうわたしたちに次はない。
 横ステップの後、皆の声援を掬い上げるように両手を前に出す。一つでも多く掴めるように、大きく、遠くまで手を伸ばす。
 ……それでも、わたしの心は思ったより落ち着いていた。これが最後っていう事実は今から変えられないけど、最後だからってやること自体は変わらない。今まで通り精一杯できることをやって、本番で目一杯の希望を届ける。今まで歩いてきた道のりと、皆の応援が力をくれる。だから大丈夫、だけど――。

「……っ、ごめん……」

 ターンのタイミングで遥ちゃんがバランスを崩す。ここでミスをするのは今日だけでも3回目だった。タイミング的にも余裕のある、普段の遥ちゃんであれば絶対に失敗しない振り付け。……スタジオの空気が、また一段と重くなる。

 ――本当に心配なのは、わたしよりも遥ちゃんの心の方だった。
 今の遥ちゃんは、すごく疲れ切った、苦しそうな顔をしている。きっと遥ちゃんのことだから、今までできていたことを取り戻すために一人でもずっと練習してるんだろう。隈ができているわけでも、痩せこけているわけでもないけれど……少しずつ焦りが強くなっていく遥ちゃんは日に日にやつれていっているようにも見えて、見ていてすごく、苦しかった。

「……今日は早めに切り上げましょう。皆も疲れが溜まっているみたいだしね」
「待って愛莉、私はまだ……」
「遥、自分でも気付いてるでしょ。ミスに目を瞑ったとしても明らかに動きが鈍くなってる。焦る気持ちは分かるけど、今日はちゃんと身体を休めなさい!」

 その異変に気付いているのは、愛莉ちゃんや雫ちゃんも同じ。誰から見ても……きっと遥ちゃん自身から見ても、遥ちゃんの状態が良くないことは明らかだった。

「……ごめん、皆……」
「大丈夫よ、遥ちゃん。調子が悪いことは誰にでもあるわ」

 酷く落ち込む遥ちゃんを、雫ちゃんが慰める。
 わたしは。……わたしは。

「……遥ちゃん」
「みのり」
「無理は、しちゃ駄目だよ」

 ……ごめんね、って。きっと聞こえないように呟かれた声を、それでもわたしは拾い上げてしまう。それ以上は何も言えなかった。思うようにいかない苦しさと痛みは、この身をもって感じてきたつもりだったから。

 仲間が、大切な人が、ぼろぼろになっていくのに。わたしはただ、曖昧な言葉で誤魔化すことしかできない。
 わたしは、いつまで経っても半人前だ。

【2】
 スランプになった。
 身を裂かれるようなこの痛みも、要約すればたった4文字で表せてしまうものだった。別にそれ自体は、アイドルに限らずどんな人間にでも一度や二度は起こりうるものだろう。縁遠いまま順風満帆にステージを降りれるだなんて思ってはいない。……ただこれが、私たちにとって二度とは来ない、最後のライブの直前だというのが問題で。

「帰って身体休めなさいって言ったでしょ」

 公園のベンチで思案する私の思考を、不意に頬に感じる熱が遮る。
 振り向けば呆れ混じりで私にペットボトルを押し付けている愛莉の姿があった。

「一応、身体は休めてるつもりだったんだけど……」
「『暖かくして寝ろ』って意味で言ったのよ。こんなところで頭使っても風邪引くだけでしょ」

 持っていたお茶を投げ渡すと、そのまま私の横に腰掛ける。こんなことを言いながらも、私の考え事には付き合ってくれるらしい。貰ったお茶を一口飲めば、少し痛いくらいの温かさが広がって、代わりに奥底に澱んだ息苦しさが、ほんの少しだけ白い息と共に吐き出された。

「……最後だって思うと、どうしても身体が強張って」
「気持ちは分かるわ。最後だから最高のライブにしたいって思うと、余計にね」
「ちゃんとやらなきゃ、うまくやらなきゃって思うほど、頭がこんがらがって動けなくなって」
「暫く休んで頭冷やしなさい……って言いたいところだけど、時間もないし今の遥には逆効果かもしれないわね」

 僅かな静寂。二人手元の飲み物を一口含んで、小さく息を吐く。愛莉は缶のココアを買ったらしい。私にはお茶を選んでくれたのは、こんなになっても練習も糖質制限も休みきれない、不器用な私を最大限尊重してくれている証なのだろう。

「みのりのことは、考えすぎない方がいいわよ」
「……それは、ちょっと難しいかも。というか、気付いてたんだ」
「とっくの昔に気付いてるわよ、そりゃあ。わたしも雫も、本人以外は皆分かってると思うけど」

 ——私は、みのりのことが好きだ。
 それはファンに対する好意でも、友達に向けるそれでもなくて……一人の、少女として。
 アイドルである内は恋愛なんてしちゃいけないから、そんなことでファンの皆の信頼を裏切りたくないから、だからこの想いはアイドルを辞めるその日まで秘め続けると決めていた。その代わり、アイドルを辞めて「普通の女の子」に戻る時が来たのなら、この想いを伝えようと決めていた。
 それを聞いてみのりがどう反応するかは分からないけれど。それでも後悔のない完璧なライブで、マイクを置いて。そうして、一世一代の告白を……なんて、都合の良い夢を見ておいて。

「こんな、目も当てられないことになっちゃった。……本当にごめん。愛莉と雫にも迷惑かけて」
「別に気にしてないわよ」
「最後だから次はないのに、みのりともう歌えないのにって、そんなことばっかり頭に浮かんじゃって」
「考えすぎると、どんどん深みに嵌っていくのよね。だから一度休んで頭冷やしなさいって言ってんの。……何より、あんまりぼろぼろになりすぎると、みのりが泣くわよ」
「……それは、嫌だなぁ」

 そう思うなら早く帰ってお風呂入りなさい? 呆れたように笑いながら、空になったペットボトルを引き抜いて愛莉は歩いていった。

 休んだ方がいいのは分かってる。スランプに輪をかけて動きが鈍くなっていく身体にも、ちゃんと気付いているつもりだった。
 だけど何をしていても、進む時計の針の音が、近づいてくる終わりの足音が聞こえてくる気がしていてもたってもいられなくなる。昔に比べて休むのは上手くなったつもりだったけど……それも気休め程度のものだったかもなんて、そんな更なる良くない思考が頭をもたげる。

「……もっと、雫にも相談してればよかったのかもな」

 私は、後悔のない未来に進みたいのに。
 零れ落ちたのは、そんな過去への後悔だった。

【3】
 遥ちゃんが、ぼろぼろになっていく。
 苦しそうに、辛そうに、少しずつ萎れていく。

「……ここのステップが、何度やってもできなくて……」
「焦りは禁物よ、遥ちゃん。重心を意識してもう一度やってみましょう?」
「ありがとう雫。……もう一回……」

 遥ちゃんが、ぼろぼろに、なっていく。
 残された時間が消える度に、出会える回数が減っていく度に、少しずつ掠れて、崩れていく。
 わたしはそれを、見ていることしかできない。

「……ごめん、もう一回やらせて」
「休憩なしで何時間やるつもり!? 焦るのは分かるけど、ちゃんと休憩しないとできるものもできなくなるって何度も言ってるでしょ!?」
「分かってる。分かってるけど、もう少しでなんとかなりそうで……」

 ……遥ちゃんが、ぼろぼろに、なっていく。
 わたしはそれを見ていることしかできない。結局何が一番遥ちゃんのためになるのか、わたしは見つけられていなかった。無理をしてほしくないのは当たり前だけど、追いつけなくて、思い通りにいかなくて焦ってしまう気持ちもよく分かる。そもそも遥ちゃんや愛莉ちゃん、雫ちゃんと違って「終わり」を一度も体験していないわたしが、遥ちゃんたちと同じ気持ちでいられている自信もなかった。朦朧とした目でそれでも這って前に進もうとする遥ちゃんが見ている景色は、わたしが見ているそれよりずっと、切実なものなのかもしれない。だからわたしには、遥ちゃんを止める資格があるのか分からない。
 ……何より、胸の底で渦巻くこの叫びは、遥ちゃんのためじゃなくて、ただのわたしのエゴだから。

「痛っ…………!」

 そう、だから。

「——遥ちゃん!!」

 抑え込んでなくちゃ、いけなかったのに。

 遥ちゃんがバランスを崩して倒れ込んだ時、わたしの身体は、想いは、堰を切ったように遥ちゃんの元へ駆け寄っていた。そのまま溜め込んだ言葉が奔流となって、口許から溢れていく。

「遥ちゃん、もう休もうよ! このままだと本当に怪我しちゃうよ!!」
「……大丈夫だよ、みのり。私はまだ……」
「大丈夫じゃない!!」

 自分でもびっくりするくらい大きな声だった。一度飛び出した言葉は、もう止められない。制御できない感情が、鋭利なままでわたしの口を離れていく。

「愛莉ちゃんも言ってたよね!? ちゃんと休憩しないとできることも出来なくなるって!! ちゃんと休まないと駄目だよ!!」
「でも……でもあと1週間しかないんだよ!? もう十分休んだよ、これ以上止まってる暇なんてないの!!」
「いつまで経ってもこのステップもできてないじゃん!! もうぼろぼろだって遥ちゃんも分かってるんでしょ!? 無理して頑張っても本番前に駄目になっちゃったら元も子もないんだよ!!」
「私たちの都合でライブは待ってくれないの!! これが最後なんだから手なんて抜いてられない!! 私なら大丈夫だから、みのりは——」
「いい加減にして!!」

 止められなくなった熱が、雫となって、頬を伝う。
 わたしに、そうする資格なんて、なかったのに。

「ぼろぼろになっていく遥ちゃん、もう見てられないの!! 遥ちゃん『ファンの皆を不安にさせちゃ駄目』って言ったよね!? わたしのことはファンじゃないの!?」

 4人だけのスタジオに、怒鳴るような声が響く。抑えられなかった言葉を後悔するより先に、「ごめん」と小さく呟いて、遥ちゃんが部屋を飛び出していった。

「遥ちゃん!!」

 すぐに後を追うように、雫ちゃんが飛び出していく。
 愛莉ちゃんは動かなかった。わたしは、動けなかった。
 吐き出してしまった言葉の空白を、どうしようもない程の後悔が埋め尽くす。瞳からとめどなく溢れ出す痛みは、酷く我儘で、自分勝手なものだった。

【4】
 ——みのりと遥が、喧嘩した。
 いや、喧嘩というのは適切ではないのかもしれない。側から見れば意地を張っているのは遥の方で、正しいことを言っている方はみのりの方だった。……ただただ、突きつけられた言葉とそれを発した人間が、遥にとってはあまりにも残酷なものだったというだけで。

「ごめんね……愛莉ちゃん……ごめんね…………」

 結果として、遥はスタジオを飛び出して、みのりは立ち尽くしたまま泣いている。わたしは、遥を追わなかった。大丈夫だとは全く思わないけれど、雫が追いかけていったから、きっとある程度はなんとかしてくれるはず。
 だから今は、後悔と罪悪感に押し潰されそうな彼女の側に居てあげたいと思ったのだ。……遥のそれと同じくらい、みのりが抱える想いだって、わたし達は知っていたから。

「……みのりは何も間違ったことを言ってないわ」
「でも」
「このまま無理を続けてれば、きっと遥は怪我してた。むしろ謝るのはわたしたちの方よ」

 このままだと今にも倒れてしまいそうなみのりを、とりあえず壁の側に座らせる。
 最後の言葉に嘘はなかった。このまま遥に無理をさせても、彼女の思い描く結末にはならなかっただろう。誰かが止めてあげるべきだった。誰かが叱ってあげるべきだった。みのりは何も悪いことをしていない。……本当はわたしたちが、憎まれ役を買って出るべきだったのだ。

「……違うの、愛莉ちゃん」

 ——でも、それでも尚。わたしの認識は甘かったらしい。

「本当はね、わたしが嫌だっただけなの。これで最後のライブなのに、これで歌えるのは最後なのに、苦しそうな遥ちゃんなんて見たくないって……! 遥ちゃんの想いを大切にしたいって思ってたのに、わたしが目を逸らしたいからって……遥ちゃんに酷いこと言って…………!!」

 みのりの想いには気付いているつもりだった。彼女が遥のことを好きなことも、その想いを抱えたままステージを降りるつもりだということも。
 その痛みまでは、分かっていなかった。みのりのそれはきっとエゴでもなんでもない。恋焦がれる人がぼろぼろになっていくその様を見たくないと思うのは当たり前のことで、それを止めようとすることを、自分勝手なこととは思わない。……言いすぎたと反省することはあっても、自分の我儘だと悔やむ必要は、本来みのりにはないはずだ。

「……何度も言うけど、みのりは悪くないわよ。遥のことを想ってるから、みのりはそう思うんでしょう?」
「でも、でも……!!」

 声も枯れ震えるみのりの身体を、強く抱きしめる。
 一体彼女は、どれだけ自分の想いを押し殺してきたんだろう。遥のためだと言い聞かせて、どれだけの言葉を飲み込んできたんだろう。そんなみのりの底抜けの優しさが、呪いになって、彼女の心を蝕んでいる。

 その呪いを解ける人間は、今ここにいない。

「……みのりも、今日は帰って休みなさい。ちゃんと寝て、落ち着いて、そこからじっくり考えましょっか」

 突き刺してしまった言葉のことも。来週に迫ったライブのことも。……そして、二人の想いのことも。
 腕の中で泣きじゃくるみのりは、数瞬の後、小さく頷いた。

【5】
 ——走り去る遥ちゃんを、追いかける。
 遥ちゃんがスタジオを飛び出した時、私の身体は咄嗟に彼女を追っていた。一瞬経ってからみのりちゃんのことに考えが巡ったけれど、動く様子のない愛莉ちゃんが目に入って、すぐに思考を遥ちゃんに集中させる。……きっと、みのりちゃんのことは愛莉ちゃんがなんとかしてくれる。私は、私にできることをやらないと。

 廊下を駆け抜けて、階段を下る。建物を出た頃には彼女の姿を見失いかけていたけれど、幸い方向音痴の私でも迷わず遥ちゃんの側に辿り着くことはできた。……すぐ近くの公園のベンチで俯く、小さな背中が見えたから。

「遥ちゃん」
「あ……雫」

 振り返ったその目は真っ赤になっていた。きっと溢れる涙を必死に抑えようとしたのだろう。遥ちゃんは、こういう時でもアイドルで、みんな一人で抱え込もうとするから。
 そっと、彼女の隣に座る。なにか気の利いた言葉をかけられれば良かったけれど、私にできることは、ただ隣で待つことだけだった。
 静かに待つ。彼女との間に、葉擦れの音だけが鳴り響く。走り続けた二人の呼吸が落ち着き始めた頃、遥ちゃんはぽつりぽつりと話し出した。

「……みのりのために、頑張ってたつもりだったの。最後のライブだから、一緒に歌えるのはこれが最後だから、完璧なステージにしなきゃって。そうしないと、みのりに想いを伝える資格なんて、ないと思ったから」
「ええ。すごく素敵なことだと思うわ」
「でも、みのり本人に否定されちゃった」
「……気持ちは分かるわ。私も、経験があるから」

 MORE MORE JUMP!が結成されるより前……Cheerful*Daysを辞めた時の出来事を思い出す。愛莉ちゃんに、一番肯定してほしかった彼女に否定されて、何もかもを見失ってしまった時のことは、今でも思い出すと、胸の奥が、ずきりと痛む。
 大切な人に自分を否定されることは、身が引き裂かれそうな程苦しいことだ。それなのに遥ちゃんは、涙も見せずに、耐え続けていて。

「……みのりの言うことは、正しい。無理をしすぎても良いことはないって本当は気付いてたの。それなのに焦って、目を逸らして……」
「素敵なライブにしたいって思うことは悪いことじゃないわ。好きな人のために頑張りたいって、思うことも」
「……愛莉にも言われたの。あんまりぼろぼろになりすぎると、みのりが泣くって。なのに止まれなくって、結局、みのりを泣かせた」
「……」
「本当に馬鹿だな、私」

 遥ちゃんは、歪に笑ってみせた。大切な人を肯定するように、自分の在り方を否定するように。

「……遥ちゃん」

 それは、とても悲しいことだと思う。

「苦しい時は、泣いてもいいのよ」

 そうしてそっと、遥ちゃんのことを抱き寄せる。気の利いた言葉は掛けられないけど、気の利いたことはできないけれど。その痛みに寄り添うことならきっと、私にもできるから。
 抵抗はなかった。一瞬だけ風が通り過ぎて、すすり泣く声が私の肩を濡らしていく。

「……ごめん……ごめんね、雫……」
「いいのよ、遥ちゃん」
「分かってるのに……全部分かってるのに、どうすればいいか分からなくて……!!」
「それは悪いことじゃないわ。いっぱい泣いて、いっぱい休んで、それから一緒に考えましょう?」

 一度零れた言葉と想いは、止めどなく彼女から溢れ出していく。強く、強く抱きしめながら、私はただ、それを受け止めていた。

【6】
 3月23日、日曜日。最後のライブまで残り6日。

 状況は極めて深刻だ。遥には休養を言い渡したとはいえ、残り時間で彼女が復活できる保証はない。遥がいないことでみのりのパフォーマンスにも何処か陰りが見えていて、中止という最悪の選択肢すらも、頭の端をちらつき出す。
 せめて練習時間を増やせるように、ミクたちにお願いして可能な限りセカイのどこかしらのステージを練習に使えるよう工面してもらえたし、空いている時にミクやリンに手伝ってもらうことで、ある程度は本番を想定した練習もできるようになってきた。
 それでも4人が揃わなければ感覚のずれは大きい。全員の調子が戻らないと、できる練習は限られてくる。
 誰が悪いと言う話でもない。それぞれの想いを尊重したいあまりに、この事態を避ける努力を怠ったわたしたちにも責任はある。そして何より、遥自身、みのり自身じゃないと解決できない問題でもあった。……わたしたちにできることは、できる限りのサポートをすることと、二人が復活した時のために、最大限の準備をすることだけ。

 遥が、戻って来れば。それだけで状況は大きく上向くだろう。だけどそのためには時間が必要だ。今は待つ時。……だけど。

「……できることは、やらなくちゃね」

 他の誰かなら、見える景色も違うかもしれない。雫と目を見合わせて、わたしは沈黙したままのスマホを開いた。

【7】
 遥ちゃんは、今日も来なかった。
 あの日からどこか力が入らない。気持ちを切り替えようとする度に、後悔と罪悪感がじわじわと喉を締め付けて、思考に靄がかかっていく。歯車が少しずつ狂っていく中、少しずつ焦りに呑み込まれそうになる感覚。

『これ以上止まってる暇なんてないの!!』

 遥ちゃんの言葉が頭の中で反響する。いなくなってから初めて言葉の意味が分かるのは、我儘で遥ちゃんを傷つけたわたしへの罰なのかもしれない。

「今日はここまでにしておきましょうか」

 そんな愛莉ちゃんの声で、大きくため息をつく。考えはずっと乱雑していた。遥ちゃんはどうなるのか。わたしはどうするべきか。結局わたしは、何がしたいのか。纏まらない答えは遥ちゃんを蝕んだ焦りになって、わたしの身体をも蝕み始める。

「みのりちゃん!」

 そんなわたしの思考を遮ったのは、愛莉ちゃんのものとも雫ちゃんのものとも違う、綺麗でよく通る声。

「ミクちゃん!」
「ちょっとだけ、一緒にお話ししない?」

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 さっきまで練習をしていたステージの客席に、二人腰掛ける。遠くから微かに聴こえてくる歓声が、どこかのステージでライブが行われていることを教えてくれる。

「ミクちゃんは、今日はライブないの?」
「うん! 今日はリンちゃんとめーちゃんがメインのライブだから、わたしはお休みなんだ。それに、今日は大切なお仕事もあるから」
「大切なお仕事? ライブ以外で?」
「みのりちゃん、なんだか苦しそうにしてたから、何か力になれたらって思って」

 そう言って微笑むミクちゃんは、アイドルスマイルとは違う、とても優しい目をしていて。その暖かさだけで、喉を締める何かが少しだけ溶けたような気がした。

「わたしでよければ、相談に乗るよ」
「何が苦しいのか、わたしでも分からないのに?」
「一緒に言葉にしてみよう? そうしたら、本当の想いも見つかるかも」

 ——そっか。ミクちゃんは、こんな子だった。わたしたちの本当の想いを一緒に見つけてくれて、その想いを後押ししてくれて、そして想いの行く先を、静かに見守ってくれる。
 喉のつかえは完全には取れないけれど、声を出せるくらいには溶けていた。小さく呼吸を整えて、わたしも知らないわたしの想いを、少しずつ、はきだす。

「ぼろぼろになっていく遥ちゃんを見ているのが、辛かったの。だんだんとプレッシャーに押し潰されて、やつれて、駄目になっていく遥ちゃんが、見ていられなかったの」
「それは、遥ちゃんが憧れのアイドルだから?」
「……ううん、多分、違うと思う。遥ちゃんは普通の女の子なんだよ。憧れの人がいて、甘いものとペンギンが大好きで、一人で何かを抱え込もうとしちゃう、普通の女の子。だからきっとわたし、遥ちゃんに惹かれたの。その可愛さと優しさと、頑張るその姿に。……遥ちゃんを見てて苦しかったのも、きっとだからだと思う」
「遥ちゃんのこと、大好きなんだね」
「……うん。大好き。ずーっと頭の中に遥ちゃんが住み着いちゃうくらい、わたしは、遥ちゃんのことが大好き」

 きっと、この世界の誰よりも、恋してるんだ。その言葉は自分から零れた割にすとんと胸に落ちた。ずっと抱えていた想いに、シンプルだけどぽかぽかする、そんな名前がつけられる。
 わたしは、遥ちゃんのことが好き。アイドルとしてでも、友達としてでもなくて、一人の、少女として。

「……でもわたし、遥ちゃんに意地悪なこと言っちゃった。遥ちゃんも苦しいって分かってたはずなのに、ずっと思ってた我儘を一方的に吐き出して、逆に遥ちゃんのこと傷つけちゃった」
「我儘なんかじゃないよ。大切な人が苦しんでるのを見たくないっていうのは、大事なことじゃないかな?」
「うん。愛莉ちゃんも同じこと言ってた。……でもね、違うの。もっと早く言ってればこんなことにはならなかった。きっともっと遥ちゃんが傷付かない言い方もあった。……結局わたしは、嫌われたくなかったんだと思う。『遥ちゃんの意思を尊重できるわたし』でいたかったんだと思う。なのに途中で耐えきれなくなって、全部遥ちゃんにぶつけちゃった」

 だから、これは我儘なの。
 自分でも曖昧になっていたわたしの罪を言葉にする。何か言いたげなミクちゃんは、だけど口を噤んで考え事をし始めた。遠くで響く歓声が徐々に小さくなって、溶けていったはずの後悔が、再びわたしの首を締めようとしたその時。

「みのりちゃんは、どうしたい?」
「えっ?」
「みのりちゃんは、遥ちゃんとどうなりたいの?」

 一番大事なことって、そこじゃないかな。ミクちゃんは笑った。さっきよりももっともっと、優しい顔で。
 わたしは。わたし、は。
 目を閉じて、静かに潜り込む。痛みの奥、後悔の奥、深い深い、想いの底に。
 ……わたしは。

「遥ちゃんと、歌いたい。最後のステージで遥ちゃんと、精一杯の希望を、届けたい」
「だったら、みのりちゃんはどうする?」
「……遥ちゃんに、謝らなくちゃ。遥ちゃんが戻ってきてくれるように、今の想いを伝えなきゃ」

 そうだ、一人で悩んでる暇なんてないんだ。わたしは、遥ちゃんの隣で歌いたいんだから。ごめんねってそう伝えて、遥ちゃんが戻ってきてくれる保証はないけど。だけどこの後悔は消し去らないと、わたしは、遥ちゃんの隣に立てない。

「……でも、これも我儘じゃないかな……?」
「遥ちゃんはきっと、我儘なんて思わないよ。それに、ちょっと我儘も言わないと、みのりちゃんも全力でステージに立てないでしょ?」
「……そう、かも」
「もし心配なら、わたしも一緒に遥ちゃんに会いに行くよ」
「ううん、大丈夫! わたしのことだから、わたしが頑張らないと!」

 そうだ。これはわたしが向き合わなきゃ行けない問題だ。わたしが、わたしの言葉で、遥ちゃんに伝えなきゃいけない想いだ。やるべきことが定まって、思考がクリアになる。あの息苦しさはいつの間にか消えていた。

「ありがとう、ミクちゃん! わたし、頑張るね!」
「うん! 頑張って、みのりちゃん!」

 今日はもう夜遅い。けど、のんびり明日を待ってる時間はない。だから、

『遥ちゃん、今電話してもいい?』

 どうか、今日想いを伝えられますように。そんな願いを込めて、アプリの送信ボタンを押した。

【8】
 ——みのりちゃんがいなくなった客席から、ふと目の前のステージを眺める。明かりの落ちたその空間はどこか物寂しいけれど、同時に華やかな明かりが灯るその瞬間を、ただ静かに待ち続けているようにも見えた。

『遥ちゃんと、歌いたい』

 みのりちゃんは、そう言った。大好きな人と、恋焦がれる人と、「結ばれたい」ではなくて、「歌いたい」と。
 きっとみのりちゃんは、心のどこかで諦めてる。起き上がっても、前を向いても、それでもどこかで、本当の想いを夢物語と諦めてる。
 きっとみのりちゃんは……最後のライブで、自分の想いにも区切りをつけようと思ってる。自分の想いを振り切って、遥ちゃんの最後のライブを、最高のものにしたいって思ってる。

 それは、すごく悲しいことだ。本当の想いに気付いてるのに、それを諦めてしまうなんて。自分の想いを投げ捨てるほど好きなのに、それを伝えずに終わりにしてしまうなんて。

 それは、伝えれば叶う願いなのに。

「……遥ちゃん」

 どうか、みのりちゃんを救ってあげて。
 あなたのその、焦がれるような恋で。
 想いに寄り添うために生まれたわたしには、決してできないことだから。

【9】
 ベッドの上、特に目的もなく寝転がる。
 愛莉から休養を言い渡されて3日が経ったけれど、ちゃんと休めているかと言われると微妙なところだった。ランニングやストレッチ、糖質制限は止めるとかえって落ち着かないから続けているとして、それ以外の時間はなるべく身体と心を休めるようにしてるつもりだけど、本を読んでも、動画を見ても、ペンギンカフェでペンギンのぬいぐるみに話しかけてみても……奥底で膨らんでいく焦りはごまかせない。

『ぼろぼろになっていく遥ちゃん、もう見てられないの!!』

 思考に空白ができる度に、あの時のみのりの言葉が反響する。逆の立場なら私だって見てられなかったって、少し冷静になった今なら思える。
 それでも正解までは分からなかった。たとえ休んだとしても、今みたいに焦りが消えることはなかったと思うし、ああなってしまう前に止まれたかを考えても、あまり上手くいく様子が想像できない。
 結局私は、どうするべきだったんだろう。「みのりが好き」だというその想いすらも、間違いだったように思ってしまう。

 ……今日は、散歩でもしてみようかな。結局時間は残されてないのだ。休養とは言っても復帰するための努力はしなきゃいけない。身体を動かしながらいつもと違う景色を見てみれば、少しは気持ちも晴れるかも。
 なんて思って起き上がった直後、枕元のスマホが振動した。どうやらメッセージを受信したらしい。愛莉や雫からの業務連絡か、それとも大学の友人からか。

「……杏?」

 そんな予想は見事に外れる。メッセージの送り主は、最近ほんのちょっと疎遠になっていた幼馴染だった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 夕暮れ時のWEEKEND GARAGEは、日曜日にしては人がまばらだった。隅っこのテーブルでひらひらと手を振る杏を見つけ、向かいの席に腰掛ける。

「お店、手伝わなくて大丈夫なの?」
「父さんからはオッケー貰ってるから大丈夫。他でもない遥のためだしね」
「私のため、か……。それじゃあ、今日は杏の奢りってことかな?」
「遠慮ってものがないなぁ。まあ出すつもりだったけどさ」

 少し期間が空いていたくらいでは、この居心地の良さは変わらない。ひとしきりくだらない軽口を叩き合って、そこから本題に入っていく。

「それで、どうしたの? 杏の方から呼び出すなんて珍しいじゃん」
「別に。『遥がスランプで苦しんでるから助けてあげてほしい』って言われたから、久しぶりに幼馴染の様子を見たいと思っただけ」
「……それは」
「スランプで不調なんてらしくないじゃん。みのりのことで何かあった?」

 ……この幼馴染は、躊躇いなく痛いところを突いてくる。そもそも誰が話したんだろう。みのりも愛莉も雫も、誰であってもあり得るところが難しい。
 いや、そういう詮索をしている場合でもないんだろう。今目の前で、私が信頼する親友が、私の言葉を待っている。私を信じる幼馴染が、「私を頼れ」と言っている、なら。

「……笑わない?」
「内容によるかも? でも、多分笑わないよ」

 そっか。それなら、いいかな。
 小さく呼吸を整えて、今抱える感情の全てを、二人の間に並べていった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 みのりのことが好きなこと。
 最後のライブの後に告白したいこと。
 だから最後のライブは絶対に成功させたいこと。
 変に力が入って上手く踊れなくなったこと。
 焦りに押しつぶされそうになっていること。
 みのりに、怒られちゃったこと。

 始まりから一つずつ、自分の中でも整理するように、思いの丈を載せていく。全てを丁寧に並び立て、二人の間に漂うものが沈黙となって数瞬。

「遥はさ、なんで『完璧なライブ』をやらなきゃいけないって思うの?」

 杏のその眼は、長い付き合いの中でもあまり記憶にない眼だった。何かに怒るような、正確には何かを咎めるような眼。私が気付いていない何かを見透かされている気がして、ほんの少し、息を呑む。

「それは……中途半端なライブの後に、告白なんてできないから……」
「それって変じゃない? おかしいこと言ってるって自分で分かってる?」
「ちょっと杏、どういう意味——」
「私の知ってるアイドル桐谷遥はさ」

「こういうこと聞いたらいつも真っ先に、『皆に希望を届けるため』って言ってたよ」

 あ。思わずはっとした私を見て、杏が勝ち誇ったように笑う。
 ——そうだ、大切なことを、忘れていた。みのりへの想いに必死で、最後って言葉に踊らされて。私は、本当に大切なものを、捨ててしまいそうになっていた。

「順番が逆でしょ? みのりのためにアイドルになったんじゃなくて、アイドルの遥にみのりが惹かれたの。だったら告白のためにライブをするのは違うでしょ? アイドルとしてやるべきことをやって、そこからっていうのが筋だと思うけどな〜」
「……本当に、ぐうの音も出ない……」
「大体、『完璧なライブ』っていうのも変だよね。アイドルのライブがどんな感じかあんまり知らないけどさ、『完璧』を目指すのにそんなに意味はない気がするなー。やるんだったら『最高のライブ』じゃない?」
「ちょっと……やりすぎ…………」

 一々ぐっさぐっさと杏の言葉が突き刺さって、遂に耐えられなくなって机に突っ伏す。……胸の奥が、頭の中が、ばちばちと痛む。だけど今までと違って、どこか心地いい痛みだった。心の奥に灯が灯るような、思考がクリアになっていくような感覚。
 思い出した。私は希望を届けようと頑張る、そんなみのりの姿に惹かれたんだった。私が届けた希望を持って現れてくれた、そんな彼女に運命を感じたんだった。だったら、私が、本当に今やるべきことは。

「どう? 目は覚めた?」
「……お陰様で。もう少し優しく起こしてくれたらもっと良かったけど」
「文句あるなら自分でお金払ってくれてもいいんだけど?」
「嘘嘘、本当に助かったよ、ありがとう」

 そんな軽口をまた叩きながら、店を出る。外は完全に真っ暗になっていた。今ならどんな振り付けだって上手くこなせる気がしてたけど……流石に今から行っても練習には間に合わなさそうだ。

「ねえ、杏」
「何?」
「本当にありがとう。……私、最高のライブ、してくるから。届けられる限り目一杯の希望を届けて……そして、みのりに告白する」
「……うん。いいじゃん。今度ちゃんと結果聞かせてね。みのりのことも、ライブのことも」
「勿論。その時は、お返しに私が奢るね」

 オッケー、期待してる。
 そういつもの笑顔を浮かべる杏に手を振って、私はWEEKEND GARAGEを後にした。

【10】
『もしもし……?』
『もしもし、みのり? どうしたの、急に電話なんて』
『あっ……えっと、その……』
『みのり……?』

『……っ、ごめんなさい!!』

『……へ?』
『わたし、遥ちゃんにひどいこと言っちゃったから……。うまくいかない辛さも、焦っちゃう気持ちも分かってたはずなのに、きつく当たっちゃったから……だから、謝らなくちゃって思って……』
『……そっか、そういうことだったんだね。大丈夫だよ、みのり。私は全然気にしてないから。……いや、言われた時はちょっと気にしちゃったかもしれないけど』
『ゔっ……ご、ごめんなさい!! 花里みのり、切腹でもなんでもいたしますので……!!』
『そ、それは逆に困っちゃうかな……。うん、でも、謝るなら私の方だよ、みのり』
『え?』
『みのりの言う通りだったと思う。あのまま無理を続けたらきっと怪我してたし、本番までずっと引き摺ってたんじゃないかな。……それに私、ファンの皆のこと、全然考えられてなかった。みのりの言う通り、ファンの皆を不安にさせちゃ駄目なのに。「最後だ」ってそればかり考えちゃって、本当に裏切っちゃいけない人たちのこと、忘れちゃいそうになってたの』
『……遥ちゃん』
『うん、だから……心配かけてごめんね、みのり』

『——でも、もう大丈夫』

『……それって』
『うん。愛莉たちにはこれから連絡するけど、明日からは練習に復帰できると思う』
『本当に!?』
『本当だよ。時間もないし、どこまで仕上げられるかは分からないけど……』
『あっ……遥ちゃん、無理は』
『うん、それはしないよ。できる限りの全力でやってみる。……だからみのり。一緒に、素敵なライブにしようね』
『——うん! 絶対に……希望いっぱいの、ライブにしようね!』

【11】
 そうして、練習に復帰した遥ちゃんは、それまでと見違えるくらい丁寧で安定したパフォーマンスを発揮し始めた。
 元々セカイの皆に手伝ってもらって、遥ちゃんがすぐに合流できるように通し練習などを進めていたこともあって、ブランクのある遥ちゃんを皆で引き上げるように、あるいは完全復活した遥ちゃんが皆のモチベーションをさらに引き上げていくように……僅かな練習を重ねる度、わたしたちの動きは洗練されていく。
 やっぱり、遥ちゃんは、すごいアイドルだ。一度思い出せれば、こんなにあっという間に自分の積み上げてきたものを取り戻すことができるんだから。
 スタジオでの最後の通し練習も上出来だった。これならきっと、本番も上手くいく。……そう。わたしが遥ちゃんと歌える、最後の、ライブだって。

 3月28日、金曜日。ライブ前日、最後の休み。
 わたしは一人、当てもなく街を歩いていた。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 前日が完全に休みというのは、なんだかんだ珍しい気がする。高校生の頃は前日も皆で集まって簡単に最終確認をしていたし、ツアーの時はその街や会場の雰囲気を掴むために、前入りして軽く練習することがほとんどだった。今回は東京でのライブだし、前日は夜会場近くのホテルでミーティングをするだけで十分だろうってことで、こうして日中はお休みを貰っている訳なんだけど……昨日までは毎日練習を詰め込んでいたのもあって、なんだか気持ちがふわふわして落ち着かない。
 そしてそれに輪をかけて、遥ちゃんが調子を戻して、ライブの成功が実感をもって見えてきたという事実が、わたしの心と体をどきどきふらふらさせているのだった。

(あぁ……落ち着かない、落ち着かないよぉ……!!)

 今まで前日からこんなにドキドキすることなんてなかったのにどうして!? ひとりぼっちだから!?
 皆は皆のルーティーンがあるだろうからあんまり邪魔をするのは良くないと思うし、でもこの完全に空白になってしまった時間を潰すのに一人だとすごく心許ない。ランニングでもしようかな?いやでもそれは足を捻ったら大事だからって禁止された。ストレッチは……時間がありすぎて軟体動物みたいになっちゃいそう。イメージトレーニングは……今ここでやったら夜やることがなくなってしまう。今から始めたら脳内で全国ツアーができちゃいそうだし。
 ……というわけで、最後の最後にして前日の過ごし方を見失ってしまったわたしは、こうして宛てもなく街をふらついている。本当に締まらないところは、何ともわたしらしいというか、何というか。

「……これで、終わりなんだ」

 これが終われば、もう次はない。
 きっと、それがわたしを、

「みのりちゃん?」
「ひゃぁぁぁぁぁぁ!?」

 急に聞き覚えのある声に呼ばれて、思わず変な悲鳴が上がる。慌てて振り返れば案の定、よく見知った顔があった。

「こ、こはねちゃん……?」

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「……そっか、今日は休みなんだね。学校帰りに見かけたからびっくりしちゃった」
「えへへ……何だか、お家にいても落ち着かなくて……」

 目立たないように近くのカフェに潜り込んで、アイスコーヒーを二つ頼む。声をかけられた時はびっくりしちゃったけど、偶然こはねちゃんと会えたのはわたしにとってはとても幸運だった。

「やっぱり、緊張する?」
「緊張よりは……怖いのかも。これが最後になっちゃうことが」
「……そっか」

 そうしてまた沈黙が流れる。こはねちゃんは、次の言葉を待ってくれる。それがほんのちょっとだけ心地良くて、嬉しかった。だから、もう少しだけ甘えてしまおうって、新しい言葉を紡ぐ。

「これで最後って分かってるつもりだったんだ。だから最後に見る遥ちゃんの顔は、苦しそうな顔じゃなくて、楽しそうな顔がいいなって思ってたの。だけど遥ちゃんが元気になって、楽しそうに踊って、ああ、こうやって遥ちゃんと歌えるのも最後なんだって思うと……ちょっとだけ、怖いんだ」

 皆で合わせる歌声も、ステージから見える景色も、これでおしまい。次はない。
 ……そう、これが終われば、もう次はない。
 きっと、それがわたしを、少しだけ臆病にする。

「……ごめんね。変なこと言っちゃって」
「へ、変じゃないよ! とっても、素敵だと思う」
「……素敵?」

 届いたアイスコーヒーを一口飲んで、こはねちゃんは、目を細めて笑った。

「最後なのが寂しいのは、終わっちゃうのが怖いのは、きっと今までみのりちゃん達が頑張ってきて、たくさんのものを積み上げてきたからじゃないかなって思うんだ」
「頑張ってきて、積み上げてきたから?」
「うん。きっと、その積み重ねの先に、今があるから」

 ——目を瞑って、思い出す。最初のライブは何だったっけ?確か、ななみんと……ううん、違う。一番最初は、遥ちゃんのためにやった、あのライブだ。そこから配信ライブをして、ファンイベントをして、ワンマンをして、武闘館に、ドームになって、ツアーもして。その先に、今のわたしたちがいる。
 ……そっか、最初はわたし、遥ちゃんのためにアイドルになったんだったね。それが応援してくれる誰かのためになって、ファンの皆のためになって、見てくれるたくさんの人のためになった。その道の先に、わたしがいるなら。

「……怖がってる場合じゃ、ないのかも」
「ふふっ、そうだね。せっかく最後なんだったら、めいっぱい向き合って、いっぱい楽しんだ方が、もっと素敵かも」

 そうだね。それがきっと、遥ちゃんへのはなむけにもなるから。

「もう、大丈夫?」
「うん。ありがとう、こはねちゃん! せっかくだから、もう少しだけ昔のこと、思い出してみる!」

 こはねちゃんはもう少しここでゆっくりしていくみたいだったから、自分の分のお代を置いてお店を出る。
 まだ怖さが消えたわけじゃない。それでも、この怖さに立ち向かう想いは、見つけられた気がする。
 時計を見れば午後2時半。ホテルのチェックインまでは、あと1時間くらいある。

「せっかくだから、少し遠回りして向かおうかな」

 そうすればもっともっと、積み重ねてきたものを思い出せる気がするから。

【12】
 ……それにね、みのりちゃん。
 夢だとか終わりだとか、そういうのってきっと、一つの区切りでしかないんじゃないかなって思うんだ。私たちが、きっといつまでも一緒に歌い続けるように。みのりちゃんの物語も、きっと形を変えて続いていくと思うの。

 だから私、みのりちゃんには精一杯ステージに立ってほしいんだ。精一杯頑張って、精一杯楽しんで、精一杯想いを伝えて——。

 ——そうすればきっと、恋焦がれた誰かが、その先の世界へ連れてってくれるから。

【13】
 3月29日、午後5時38分。
 最終ライブ開演まで、残り22分。

 リハーサルの出来は90点といったところだった。ある程度セーブして動いていたことを考えれば、かなり上々と言えるだろう。この調子ならきっと、本番も大丈夫。
 そう、大丈夫なはずだけど……それでも、やっぱりこうしてカウントダウンが始まると、流石に手が、震えてくる。自分に発破はかけたつもりだったけど、大切なことも思い出せたけど、やっぱり「最後のライブ」は特別だし、その先のことを考えると、怖い。

「……うまく、できるかな……?」

 そんな言葉が、口から零れ出た。誰に言うようなものでもない。覚悟はもう決まってて、その上でほんのちょっと心が揺れただけ。深呼吸を一つして、手の震えをゆっくり落ち着けようとして……そこで不意に、みのりに声をかけられた。

「は、遥ちゃん!!」
「みのり? どうしたの?」
「あっ、えっと、その……何かわたしにでること、ないかなって思いまして……!」

 ……もしかして、聞かれてた? 私のことを励まそうとしてくれてるの、かな。恥ずかしさと一緒にほんの少しの嬉しさが湧き上がる。……そういえば、あの時もそうだった。青い海の明かりの中で、私の手を引き上げてくれたのも、みのりだった。

「じゃあみのり。私の手を、握ってくれないかな」
「……えっ? それだけでいいの?」
「うん。ちょっと、緊張で手が震えちゃってるから」

 変なお願いだと自分でも思う。でもなんとなく、少しでもみのりに触れていたいと、ぼんやり思ったのだ。
 少しの間の後。分かったと呟いて、みのりが膝をつき、両手で私の手を包む。私よりちょっと小さくて、とても暖かい手。なんだかお姫様と王子様みたいな構図だ。なんだかまた恥ずかしさが湧いてきそうだけど、みのりが王子様ならそれもなんだか悪くない。なんて、考えてたら。

「「いたぁっ!?」」

 不意にみのりから頭突きをお見舞いされた。ごんっ、と鈍い音と共に妄想が音を立てて崩れ、倒れ込むように壁に叩きつけられる。……え? なんで? 私何か悪いことした? くらくらと揺れる頭に、悲鳴じみたみのりの叫びが響く。

「は、遥ちゃんごめんね!? 大丈夫!?」
「な、何が起きたの、今……?」
「え、えっと……こうやって、おでこをくっつけたら、わたしの想いとかももっと伝わるかなって思ったんだけど……力加減を間違えちゃいまして……」

 今度はこつん、とおでこが当たった。なるほど、確かにこういうの見たことあるな。意図が分かったらさっきの失敗がとてもみのりらしく感じられて、不意に笑みが溢れた。

「は、遥ちゃん!!」
「ごめんごめん、みのりらしいなって思って……」

 そもそも私は、手を握ってくれるだけでよかったのに。触れている場所は少ないけれど、なんだか優しく抱きしめられているみたいで、僅かに残った不安や恐怖も、ゆっくりと溶けてなくなっていく。

「わたしも、ほんのちょっとだけ怖いんだ」
「みのりも?」
「うん。これで最後なんだ、もう皆と歌ったりすることもないんだって思うと、なんだか落ち着かなくって……でもね、こはねちゃんが言ってたの。不安なのは、怖いのは、今まで頑張ってきたからだって。これまでたくさんのものを積み重ねてきた証だって」

 目を閉じて、ゆっくりと心を落ち着かせていく。みのりの想いを受け取れるように、みのりの言葉に、耳を傾ける。
 積み重ね、か。確かにそれは、すごく素敵な考え方かもしれない。一日一日、一つ一つの出来事を積み重ねて私たちはここにいる。あのセカイのステージから始まって、たくさんの希望を届けて。たくさんの希望をもらって。

「そう考えたら、すっごく素敵だなって思ったの。寂しいのも怖いのも、悪いことじゃないんだって思えて。……だから、遥ちゃんも大丈夫だよ。最後のライブは、きっと素敵なものになると思う」
「……そうだね」

 きっと今まで辿ってきた全てが、私たちに力を貸してくれる。「応援してくれる皆のために」というところから、さらに一歩前へ。私たちが積み上げてきた答えを、また一つ思い出す。
 額と両手に感じていた熱が、全身に巡っていく。怖さが消えたわけじゃない。だけどみのりの言う通り、今はそれも悪くないと思える。ステージから届けたい言葉が、伝えたい想いがたくさんできたから、だから私の精一杯をって、今はそう思えるのだ。

 それに、頑張りたい理由が、もう一つ。

「遥ちゃん。……今日は、素敵なライブにしようね!」

 立ち上がって笑うみのりが、どこか泣きそうに見えたから。
 そんなみのりの本当の想いにも、ほんの少しだけ気づいていたから。
 だけど……それに向き合うのは、今じゃない。

「うん。最高のライブにしよう、みのり」

 手の震えは、いつの間にか止まっていた。

【14】
 ——結論から言えば、最後のライブは、非の打ちどころもない程最高のライブだった。
 ドームを揺らす歓声に、一面に広がるペンライトの海。
 それら全てが、私たちを、歌を、ライブを、希望を、これ以上ない程までに彩っていて……とても、綺麗だった。

【15】
 ……そうして、ライブは終わった。
 全てを終えたわたしは今、誰もいない公園で一人、夜風に当たっている。

 本当に、幸せな時間だった。わたしを呼ぶたくさんの声が、未だに残響となってわたしの中に響いてる。
 愛莉ちゃんも雫ちゃんも、ふと視界に入る度にとても楽しそうで、今までで一番かっこよかった。あんなに高く跳べるんだ、あんなに力強く歌えるんだって、ずっとすぐそばで見ていたはずなのに、今日になって初めて知ったのだ。きっとそれも、あの場所がそうさせてくれたんだろうと思う。

 ……そしてもちろん、遥ちゃんも。
 光の海の中歌い踊る彼女は、最後までずっと、泣いちゃうくらい綺麗で。ああ、やっぱりわたしは遥ちゃんが大好きだったんだって、全部が終わった時、改めて気付いた。
 そんな熱が、想いが冷めなくて、駅から少し離れた公園で一人、わたしは夜空を眺めている。

 もしかしたら、全部夢なのではないだろうか。あんなに幸せな時間が、そうそうわたしなんかに降ってくるものなんだろうか?
 誰もいないからいいか。そう思って右頬をつねると、目が覚めるような鈍い痛み。

「どう、夢だった?」

 不意に後ろから声が聞こえた。振り返ると、スーツケースを持った遥ちゃんの姿があった。

「……なんで」
「みのりと話がしたくて。愛莉から『少し外で涼んでから帰るらしい』って聞いたから探してたんだけど……すぐに見つかってよかった」
「そう、なんだ」

 わたしが端に寄って空いた席に、遥ちゃんが腰掛ける。最初の頃は心臓が高鳴ったこの距離が、今は少しだけ、痛くて、苦しい。

「遥ちゃん」
「なぁに?」
「ひどいこと言っちゃって、ごめんね」
「……もう。その話は前もしたでしょ? 私は気にしてないし、みのりは正しいことを言ったんだからもう気にしなくていいんだよ」
「……そっか」
「うん。それに、みのりがあの時怒ってくれたから、立ち止まって本当に大切なものに目を向けられた。みのりのおかげで今日のライブがあるんだよ」

 微かに風が吹いている。4月を待つ夜の風は、火照った身体を落ち着かせるには少し心許なくて、今日に限って、それがすごく恨めしい。

「……素敵なライブだったね」
「うん、最高のライブだった。会場が一つになってたし、皆のパフォーマンスも、信じられないくらい良かったしね。本当に、うまくいって良かった」
「本当に、良かったよね。愛莉ちゃんも雫ちゃんもすごく楽しそうだったし……それに、遥ちゃんも、すっごく綺麗だった」

 ありがとうって、そう微笑む遥ちゃんも、どうしようもなく綺麗だった。目の前の彼女はもうアイドルじゃなくて、わたしたちを繋いでいたユニットは、もうこの世界には残っていない。ほっぺたをつねって覚めなくても、朝が来れば夢は終わる。

「……ねえ、みのり」

 終わりにしなきゃ、いけないのに。

「私と、付き合ってくれませんか?」

 遥ちゃんはいつも、わたしの未来を、塗り替えるんだ。

「……なん、で……」
「ずっと、みのりのことが好きだった。明るくて優しくて、誰にでも手を差し伸べてくれるその姿に惹かれてた。だけどアイドルであることを、アイドルの私を応援してくれる皆の想いを裏切りたくなくて。だから、もしアイドルを辞める時が来たのなら。後悔なく、ステージを降りることができたなら。その時は、この想いを伝えたいって、ずっと思ってたの」
「でもわたし、何をやってもうまくいかないし、運も悪いし! アイドルとして頑張れたのも、遥ちゃんたちと、応援してくれる人たちが皆で支えてくれたからで……!」
「私は、そうやって言えるみのりが好きなの。たくさんの人からたくさんのものを貰って、もっともっと輝けるみのりが好き。だからそんなみのりをずっと近くで見たいと思ったの、みのりの優しさに、もっともっと触れていたいって、思ったの。……駄目、かな」

 たくさんの遥ちゃんを見てきたつもりだった。たくさんの遥ちゃんを知ったつもりだった。だけど隣でわたしの手を握る遥ちゃんは、そのどれでもない初めての目をしてて、ああ、遥ちゃんは本気なんだって。本気で、わたしが好きで、わたしといたいって言ってくれてるんだって、気付いてしまった。

「……そんなの、ずるいよ…………」

 ——ずっと、胸の内に秘めていた。ずっと、心の内に留めていた。
 わたしだって、遥ちゃんが好きだった。その正体が恋だって、とっくの昔に気付いていた。わたしは、遥ちゃんのことが好きだ。きっとこの世界の誰よりもそうだって、それだけは胸を張って言えたのだ。
 でもこれは、遥ちゃんを縛ってしまう想いだから。遥ちゃんを、困らせてしまう想いだから。だから遥ちゃんにだけは隠し通して、最後にこっそり捨てるつもりだったのだ。遥ちゃんとアイドルができて幸せだって、知らない遥ちゃんをたくさん知れて幸せだって、そう自分に言い聞かせて。

「このライブが終わったら、アイドルと一緒にこの想いも終わりにしようって、ずっと思ってたの。ライブが楽しくて、遥ちゃんがすっごく綺麗で、この想いを伝えたいって思っちゃって……それでも、これが夢だって言い聞かせれば、これで終わりだって思えれば、諦められるって……思ってたのに……!!」
「……みのりがどうしたって、私は困らないよ。それに、これで終わりも絶対嫌だ。私はみのりと、ずっと、ずーっと一緒にいたいの!!」

 ……ああ。そんなに綺麗な瞳で、泣きそうな顔で笑われたら、もう、秘めておけなくなる。
 捨てたかった想いが、雫となって、頬を濡らしていく。

「ねえみのり、みのりの想いを聞かせて? 迷惑だとか私のためとか、私はそんなのじゃなくて、みのりの言葉が聞きたいの」

 握る両手は、震えていた。それはわたしのものなのか、遥ちゃんのものなのか。……それとも、実は両方なのかもしれない。

「……わたしで、いいの?」
「みのりがいい。みのりじゃなきゃ、駄目」

 そっか、それなら。
 わたしは、その想いに応えたい。……いや、わたしは、伝えたいんだ。心の奥、隠していた本当のお願いを。積もり積もった、遥ちゃんへの想いを。

 今度は、頭突きにならないようにしないと、なんて。
 遥ちゃんの瞳が間近に迫る。光を湛えて潤む青が、とても綺麗で……ああ、ずっと、こうなればいいって思ってたって、思い出しながら、目を閉じた。

 はじめてのくちづけは、ほんの少しだけ、暖かかった。

【16】
 ——ふと、目が覚める。
 時計を見ると朝の七時。休日にしては早いけれど、もう一度寝るにはちょっと損な時間。ぼやける目をこすって、小さくあくびをする。
 なんだか、とても幸せな夢を見た気がする。きっといつまでも忘れない、あの日の記憶を、見た気がする。

 ……瞼を開けば、小さな寝息を立てる遥ちゃんの——恋人の姿が、そこにあった。
 いつの間にかわたしの新たな日常になった光景。普通の女の子に戻ったわたしに訪れる、ほんの小さな幸せ。あの日の夢を見る度に、それがどこまでも尊くて素敵なことに思えて、胸の奥が熱くなる。
 もしあの時遥ちゃんが想いを伝えてくれなかったら、わたしの手を握ってくれなかったら……きっと、こんな朝も、捨ててしまってたのだろう。そう考えたら、なんだか居ても立っても居られなくなって、今すぐにでも夢の中を揺蕩う彼女に想いを伝えたくなるけれど……この可愛い寝顔が見納めになると思うと、それはそれで、惜しい。

 だから代わりに、遥ちゃんの手に触れる。じんわりと広がる熱が、左手を伝って、わたしを巡っていく。
 ——その温度が。その鼓動が。わたしのいのちを、形作る。

「んぅ……あ、みのり、おはよう……」
「……遥ちゃん、ありがとう」
「ふぇ……?」

 きっと遥ちゃんもそうだって、今なら信じられるのだ。
 寝ぼけた遥ちゃんを眺めながら……わたしは今日も、幸せを重ねていく。

- Afterword -
2023/02/25 みのはる・はるみのアンソロジー『with you.』掲載作品

みのはる・はるみのアンソロのトリとして掲載させていただいた作品です。
2024年5月25日現在、私が書いた中で最も長いSSとなります。

みのはる・はるみのアンソロ自体、今しかやれないと思って強行した企画でした。
きっと今を逃せばこの面子でアンソロができることはないだろう、と。
そんな思いで始めた企画なので、当然参加メンバーは今見返しても錚々たる面子で、
その人たちを差し置いてトリを務める自分のプレッシャーは尋常じゃなかったことを覚えています。

書いていてとにかく意識していたことは、「自分の全てをぶつけること」でした。
表現も構成も、書きたいことも、みのはるへの愛も。
とにかく自分が持っているみのはるに関する全てを作品に乗せるつもりで書いたのがこの作品です。

1年経った今改めて見返してみると粗も目立つ作品ではありますが……。
それでも、少なくともあの時ぼろぼろになりながら込めた熱量は今でも生きている、
そんな作品だと自分で思っています。