Moon Travel
【1】
「吟子は書かないの? 小説」
少しずつ梅雨の足音がし始める、そんな6月の初め。ややじめじめとした部室の中で、退屈そうなセラスさんから飛び出したその発言は、あまりにも唐突なものだった。
「……何、急に」
「花ちゃんは言ってたよ。去年映画の台本に挑戦したのをきっかけに、時々休みの日に小説の執筆にチャレンジしてるって。吟子はどうなの?」
「どうも何も、私は花帆先輩じゃないし……」
花帆先輩が小説を書いていることと私に一体何の関係があるのだろうか。突飛な発言をするセラスさんには慣れてきたが、その対応は毎度その突飛さ故にいつまでも慣れる気配がない。
件の花帆先輩は紅茶を淹れるため離席中だ。向こうからは微かに鼻唄が聞こえてくる。いつも明るい花帆先輩だけれど、今日はどうやら特に機嫌が良いらしい。私としては、ここに手に余る女の子がいるから早く帰って来てほしいのだけれど。
「なるほど……逃げるんだね、吟子」
「いや逃げるって何から……? あとさっきから思ってたけど『先輩』だから。吟子先輩だから」
「花帆先輩はあんなに美しい物語を頑張って書いているというのに、吟子はそんな先輩から戦わずして逃げるんだねって話をしてるんだよ」
「『先輩』をつけるのは花帆先輩の方じゃなくて私!! いや確かに花帆先輩も先輩だけど!!」
思わず大きな声が出て、そこからすぐに我に帰る。ああ、気付いたらまたセラスさんのペースだ。構えば構うだけ調子に乗るのは分かっているのに、毎度毎度丁寧に彼女のペースに乗せられてしまう。どこか満足気なセラスさんの顔に何とも言えない感情を抱きながらも、今度は深呼吸をして冷静に言葉を返していく。
「大体、私は花帆先輩と争うつもりも、花帆先輩をただ追いかけるつもりもないし。応援はしてるけど、『花帆先輩がやるなら私も!』とはならないよ」
「えぇ〜……。うーんじゃあ、可愛い後輩のお願いだったら?」
「可愛い後輩って誰のこと?」
「えっ嘘……もしかして吟子ちゃんパイにとってわたしって可愛い後輩じゃない……?」
「まあ、可愛いというよりは生意気寄りかも」
可愛い後輩は先輩のことを「ちゃんパイ」なんて呼び方しないからね。
……でも、「可愛い後輩のお願い」か。確かに突然小説の話なんてあまりにも脈絡がないと思っていたけれど、もしかして結局何か理由をつけて私が書いた話を読んでみたいだけなのだろうか? そうだとすれば確かに可愛らしい理由だけど……とはいえ私は小説なんて未経験。そもそも創作自体去年の役者と何度かの作詞くらいしかやったことないし、小説を書いてくれと言われてすらすら書けなんてするはずがないのだ。
うん、やっぱり無理。目の前で上目遣いの練習をしている可愛い後輩には悪いけれど、ここはきっぱり断るのがお互いのためだろう。
「2人ともお待たせ! 今日はアイスティーに挑戦してみました〜!」
「あっ花ちゃん! ねえ聞いて花ちゃん、吟子ちゃんパイが今度小説書くんだって!!」
「「えっ!?!?」」
な、何しとらんこの生意気な後輩は!? お願いの段階をすっ飛ばして既成事実を作りに来るなんて……!!
慌てて弁明しようと花帆先輩の方を振り向くけれど、時すでに遅し。元々ご機嫌そうだった先輩の瞳は燦々と輝いていて太陽よりも眩しいことになっていた。心なしか両脇の髪もぴょこぴょこと跳ねている気がする。
「吟子ちゃんの小説!? 見たい見たい!!」
「あっ、いや花帆先輩その……」
「やっぱり吟子ちゃんが書くなら歴史小説とかなのかな!? それともよく読んでるミステリー系!? あっでもでも、吟子ちゃんが書くファンタジーとかも面白そうかも!!」
「え、えっと」
「そうだよね花ちゃん。吟子先輩ならどんなジャンルでもきっととんでもない超大作を仕上げてきてくれるはず。映画化されたら一緒に観に行こうね、花ちゃん」
「セラスさん!!!!」
正面には心底楽しそうな花帆先輩、横には勝ちを確信してにこにこしているセラスさん。……この状況は何度も経験したことがある。いわゆる、「詰み」というやつだ。
ここで怒って何もかも一蹴することだってできるだろう。そうすれば花帆先輩もセラスさんも引き下がってくれるはずだ。けれどその場合、私は花帆先輩とセラスさんの心底残念そうな顔も一緒に拝むことになる。……駄目だ。考えただけで心が折れる。我ながらあまりに自分が御しやすくて嫌になるが、こればっかりはこんな風に育ててくれた両親と近所のじいじばあばを恨むしかない。
「ああもう、分かった! 分かったから! 書けばいいんでしょ!?」
せめてもの抵抗で叫ぶ敗北宣言。
こうして私はあえなく、人生初の小説執筆に挑むことになってしまったのだ。
【2】
……さて、それなら、何を書こう。とんでもない挑戦に突き落とされたその日の夜、寮の自室で一人作戦を練る。
小説なんて書こうとしたことすら無い以上、なけなしの知識と小説以外の経験でどうにか誤魔化しながら方針を決めるしかないだろう。……一番近いのは、やっぱり作詞か。
とはいえそれだって、ほとんどは先輩方から助けてもらいながらの執筆だった。花帆先輩と、そして……梢先輩。
——書き方は分からない。けれど、書きたいものは、一つある。
治ったと思っていた傷の話。今になってまたじくじくと痛みだす、私のかさぶた。
今はもう遠い、お別れの話。
【3】
『……センパイたち、行っちゃったね』
『うん。……もう、背中も見えなくなっちゃった』
——3月31日、月曜日。蓮華祭の翌日。私たちが先輩方を見送った、そんな、桜が綺麗だった日。
行ってしまった背中を振り切るように、1人、また1人と校門を後にする中……私と花帆先輩は動かないまま、先輩方の行った先を、ぼんやりと眺め続けていた。
『昨日はいっぱい話したねぇ』
『そうだね。思い出話から未来の話まで、たくさん。……花帆先輩は、満足できた?』
『ぜんっぜん! 見送ったばっかりなのに、話し忘れてたこと10個くらい思い出しちゃった!』
『うん。私も。……でも、大丈夫。また会えるから』
『……そうだね。いつか、また!』
もう、涙はなかった。これは終わりじゃない、お別れじゃない。いつの日かまた景色が巡って、同じステージに立てる日が来る。
だから私たちは前を向く。いつかその日が来た時に、胸を張って先輩に会えるように。
……そう。この話は。
そういう、ハッピーエンドだったはずでしょう?
【4】
「——わたくしは今夜、あの月へ帰らなければならないのです。だから、くらげさん。あなたとも、ここでお別れしなくてはならないのです」
おひめさまは、眉を下げて、小さな声でそうつぶやきました。とても、悲しそうな声でした。
くらげは、悲しいけれどしかたのないことだと思いました。おひめさまが月に帰らなければいけないことは、おひめさまと出会った時から聞いていたことでした。だからこれは、しかたがないことなのだ。そう、くらげは分かっていました。
「それならおひめさま。ぼくも、一緒に月まで行きましょう」
それなのに、どうしてこんなことを言ってしまったのか、くらげは自分でも分かりませんでした。
「まだまだ夜はこれからなのだから、一緒に月までお散歩しましょう。そうしてぼくだけが帰ってくればよいのです。そうすれば今日もいつもと同じように、たくさんおしゃべりできるでしょう?」
分かってたのに、しかたのないことなのに、どうしてこんなことを言っちゃうんだろう。
くらげにはまだ分かりませんでしたが……でも、くらげのちいさな心が、そうしたいと叫んでいるような。そんな風に、くらげには思えたのです。
【5】
……結局、勢いで始めてしまった。
考えれば考える程この題材しか思いつかなかった。しかも海月の想いをまだ作者自身が掌握できていないのだからお笑いだ。書き始めれば何か見えてくるかもしれないと、とりあえず筆を執ったのはやはり無謀だったか。花帆先輩にすら苦笑いされるノープランぶりかもしれない。
とはいえ、これ以外に題材が思いつかないのならこれで書き上げるしかないのもまた事実なのだ。私はなんとかしてこの海月を、月の裏側まで連れていってあげなければならない。
一つ救いなのは、海月が誰で、お姫様が誰なのか、私はちゃんと理解してるということ。
きっと、海月の旅路の先に、私が欲しい答えもある。
「ううぅぅぅ……」
そんなわけで私は今日も、寮のラウンジで原稿に齧り付いている。いや、「齧り付いている」というのは自分を美化しすぎかもれない。正確には原稿に頭を下げている。お願いします許してください、どうか私にアイデアをください。……当然、目の前の白紙は何も答えてはくれないのだが。
眠気覚ましにと淹れたコーヒーはいよいよ3杯目が尽きようとしている。今日だけで言えばカフェイン摂取量は姫芽といい勝負になるかもしれない。心配そうに見つめてくる脳内の姫芽に、それが普段の私たちの気持ちだと敢えて悪態を投げつけた。
違う、そんなことをしている場合じゃない! あんまりもたもたしていると撫子祭の練習も本格的に始まってしまう。そこまでにはどうにかこの原稿を仕上げないと——。
「おぉ……なかなか苦戦してるねぇ、吟子ちゃん」
そんな声で顔を上げると、目の前には困ったように笑う瑠璃乃先輩。きっとお風呂上がりなのだろう。下ろしたふわふわの髪をなびかせる先輩は、両手に白いマグカップを持っていた。
「コーヒーばっかり飲んでたら目が冴えて寝れなくなっちゃうぜい。根を詰めすぎるのも良くないし、一旦休憩しよ?」
「……め、女神……?」
「うおぉ、びっくりした……なんかひめっちが乗り移ったのかと思った……」
受け取ったマグカップを覗き込めば、微かに甘い香りを漂わせミルクが揺れる。一口飲めば、優しい甘さとあたたかさが心地よくて、肩の力が少し抜けていった。ちょっとぬるめにしてくれているのは、初夏に移ろいつつある夜の気温に配慮してくれてのことだろうか。
「ありがとうございます、瑠璃乃先輩。すみません見苦しい姿を……」
「んーん、気にしないで? 吟子ちゃんが頑張ってるのは側から見てても分かるからさ。……花帆ちゃんもすっごく心配してたし」
「花帆先輩は……そりゃあまあ元凶の一人なので、多少は心配してくれないと困るんですけど……」
「あはは、それもそうだ!」
他愛のない会話が、混乱した頭と焦る心も落ち着かせてくれる。そうだ、焦ったっていいものはできない。折角書くのだから、自分の納得できるものを書かなきゃ損だ。自分の気持ちにも整理をつけたいのなら、尚更だ。
向かいの席に座った先輩は、私と同じようにミルクに口をつけながら、静かに私の方を見ている。きっと、私の言葉を待ってくれているのだろう。愚痴でも、泣き言でも、あるいは相談でも何でもいいけれど……私が何かを切り出した時に受け止められるように、きっと待ってくれてるんだ。瑠璃乃先輩は、そういう優しい人だから。
「……瑠璃乃先輩は」
別に甘えてしまっても良かったのだろう。この後の展開が思いつかないので助けてくださいって、何かいいアイデアはありませんかって、そう直接尋ねてしまうのが一番無難で確実だったのだろう。だけど、なんとなくそれは嫌だった。きっと私は、答えを自分の手で見つけたいのだ。
だから私が代わりに切り出したのは、これまでと同じ、他愛のない質問。
「瑠璃乃先輩は、今慈先輩と会えたらどんな話をしますか?」
「めぐちゃんと?」
きっと先輩も、何か原稿に関する話が来ると思っていたのだろう。一瞬目を丸くした瑠璃乃先輩は、だけど何も聞かずにその問いの答えを考えてくれる。
「めぐちゃんと会えたらかぁ。難しいねぇ……」
「ですよね。私も梢先輩で考えてみたんですけど、意外と思い浮かばなくて」
「なんならルリ、めぐちゃんとは週一で電話してるしなぁ」
「えっ、そうなんですか?」
「そうそう。めぐちゃん、あれで結構寂しがりやだからさ。まあ、ルリも人のこと言えないんだけどね」
だとすれば、変な質問をしてしまっただろうか。ただの雑談ですし無理に考えなくても、と流そうとした私を瑠璃乃先輩が制する。
「まあでも……なんだかんだ、いつも通りの話をしそうだなぁ」
「いつも通り、ですか?」
「そ。昨日何食べた~とか、仕事も勉強も大変だ~とか、そんなこと」
「それっていつもの電話では話してないんですか?」
「話してる話してる。むしろそういうあんま中身のない話ばっかり!」
そうなんだけど、なんでだろうね。
考えても考えても、ルリはそういう大したことない会話をしてるルリしか思い浮かばないや。
手元のミルクを飲みほして瑠璃乃先輩は、そう困ったように笑った。
【6】
……会いたいのなら、会いに行けばいい。話したいのなら、話せばいい。
日本を飛び出した慈先輩と違って、梢先輩は国内にいるのだ。毎日、毎週は難しくとも、連休や長期休みに遊びに行くことはそう難しい話じゃない。自分から言い出す勇気がなくたって、花帆先輩にでも相談すればとんとん拍子で話が進むだろう。花帆先輩だって大喜びで準備し始めるはずだ。
話すだけならもっと簡単だ。今目の前に映る画面、『乙宗梢』という見慣れた名前と蓄音機のアイコン。その下にある受話器のマークをたった1つタップすればいい。大切な話一つするのに一々10円玉が必要な時代ではないのだ。電波さえ繋がるなら、いつでもどこでも取り留めのない話ができる。今はもう、そういう時代だ。
『話すことが思いつかなくても、電話してあげるだけで梢先輩も喜ぶんじゃないかな?』
別れ際、瑠璃乃先輩もそう言っていた。私の意図と考えを掴み切れない中でそれでも出てきた、瑠璃乃先輩なりの気遣いなのだろう。
いくら機械音痴の梢先輩だって、かかってきた電話に出ることくらいは流石にできる。いきなり私から電話がかかってきたらびっくりするだろうけど、それでも瑠璃乃先輩の言う通り、梢先輩は喜んでくれるはずだ。胸がいっぱいになるほどに、たくさんの優しさと愛情を私たちにくれる人だから。
さやか先輩と小鈴も、時折綴理先輩に会いに行っているらしい。
姫芽だって、時々瑠璃乃先輩と一緒に慈先輩に電話してると言っていた。
卒業も約束も、また触れ合うことそれ自体を拒むものではない。会いたいなら、話したいなら、いつだってそうしていいのだろう。皆が、そうしているように。
それなのに。
それなのに「違う」と思ってしまうのは、どうしてなのだろう。
巡る思考を切り替えるように、わざと一つ大きなため息をつく。そうして私はベッドから起き上がり机に向かった。ホットミルクと瑠璃乃先輩の愛情だけでは、流石にブラックコーヒー3杯を相殺することはできなかったらしい。どうせ寝れなくて、スマホにも用がなくなったのであれば、やるべきことが一つある。
変わらず白紙の原稿を広げて、使い慣れたシャープペンシルを持つ。まだ分からないことも多いけれど……今ならまた一つ、物語を進められる気がした。
【7】
――竹で作ったロケットの中で、くらげとおひめさまはたくさんお話しました。特別な話はありません。いつも一緒にお散歩をしながら話していたような、そんな他愛のない話をたくさんしました。
月で遊ぶうさぎの話。
おひめさまが大好きな、湖のほとりに咲く蓮の花の話。
海の中から見た天の川の話。
一緒に出かけた川辺のお話。
本当は、もっと特別なお話がよかったのかもしれません。2人で過ごす最後の夜を彩るような、そんな素敵なお話をするのがよかったのかもしれません。
それでも2人は、いつも通りの話ばかりをたくさんしました。うまく言葉にはできないけれど……どうしても、そんなお話ばかりがしたい、そんな気分だったのです。
【8】
「……花帆の様子はどうかしら、吟子さん」
「良くも悪くもいつも通りです。何か思いついたと思ったら急に走り出して……いつも追いつくので精いっぱいです」
「あらあら。相変わらずね」
「全くです。……そうだ梢先輩、花帆先輩ってばひどいんですよ!? 先輩方が卒業した次の日、皆を集めて最初に何て言ったか分かります!? 『スクールアイドルクラブ辞める』ですよ!? こっちは2人でスリーズブーケを盛り上げるんだって必死に自分を鼓舞してたのに、こっちの気も知らずに一人でぐるぐる思い詰めて!!」
「そういえば、セラスさんも蓮ノ空に入学したと聞いたけれど、うまくやれているかしら?」
「はい、すごく楽しそうですよ。なんだか懐かれちゃったみたいですごく絡んできますけど……」
「ふふっ。吟子さんは優しいもの。きっと一緒にいると安心するのよ」
「こっちは毎回胃がキリキリと痛むんですけどね……!」
「でも、可愛いでしょう?」
「それは……まあ。あれでも大切な、初めての後輩ですから」
「一緒に入って来た泉さんも変な人です」
「あら、そうなの? ラブライブ!で話した時はしっかりしているように見えたけれど……」
「いや、あの人は関われば関わるほど変ですよ。この前も急に『想定通りはつまらない』なんて言って姫芽のこと困らせてて。……案外、子供っぽいところもあるのかもしれないです」
「そうなのね。でも、いいんじゃないかしら? 時には弱みや年相応なところがある方が、親しみを感じることもあるでしょうし」
「確かに、それはそうですね。そういう意味では、泉さんって梢先輩に似ているのかも」
「ぎ、吟子さん? それは一体、どういう意味なのかしら……?」
「……本当に、先輩方が卒業した後も毎日ずっと騒がしい日々です」
「昔の方が良かったなんて全く思わない程、昔も今も、とんでもない出来事ばっかりで」
「……今も私は、毎日とっても楽しいですよ」
「その気持ちだけは絶対に嘘じゃないって、今でもはっきり、言えるんです」
【9】
なんだか少し暑苦しい感覚と共に、まどろみから浮かび上がる。……また、梢先輩の夢を見ていた気がする。本当に、会いたいなら会いに行けばいいって、分かってるはずなのに。
ぼやける目を少し擦れば、見慣れた部室の景色が輪郭を帯びてきた。窓の外を覆う、相変わらずの曇り空。遠くから響く運動部の掛け声。目の前の原稿用紙は相変わらず白紙だった。進捗が無かったわけではない。その証拠に、紙束の厚さは昨日よりほんの少し薄くなっている。
「おや、お目覚めかい?」
そんな凛とした声を受けて、意識が完全に覚醒する。声のした方を振り向けば、部室のドアを閉めこちらに向かってくる泉さんの姿があった。両手には1つずつ、スポーツドリンクの青い缶を持っている。
「何か目が覚めるものがあればと思ったのだけれど……昨日はコーヒーをがぶ飲みして机に齧り付いていたみたいだし、またカフェインを摂るのも良くないと思ってね。悩んだ末にこれになってしまったわけなんだが……」
「ううん、今はそれがちょうどいいかも。ありがとう、もらうね」
まだひんやりと冷たいアルミ缶を受け取って、そのまま中身を一口流し込む。ホットミルクとは違う、さっぱりとした甘さと冷たさが、寝起きで火照った身体も少し冷ましてくれた。……なんというか、最近こうやって何か飲ませてもらってばかりだな。原稿が終わったらちゃんと皆にお礼しないと。
「随分と苦戦しているみたいだね。吟子さんが居眠りだなんて、珍しい」
「うう……今日に関しては昨日コーヒー飲みすぎたのが良くなかったかな……。でも、苦戦はしてるけど、一応少しずつは進んでるから大丈夫」
「それならよかった。セラスもしきりに心配していたからね」
「花帆先輩といいセラスさんといい、その優しさと気配りをどうして最初に発揮できなかったの……?」
似た者同士というかなんというか、それとも長野の人って皆こんな感じなのだろうか?
一つ息をついてはそんなくだらない思考を切り替えて、また真っ白な原稿に向き合う。……こうやって向き合うだけで、魔法のように作品が書き上げられていけば、こんなに苦労することもないのだけれど……。
「……それで、吟子さんが悩んでいるのは、原稿の展開だけなのかな?」
ひとしきり悩んで再び原稿に頭を下げようとした時、いつの間にか隣に座っていた泉さんがそう切り出す。
本当に、人のことをよく見ている人だ。小鈴とも姫芽とも違う、鋭くて的確な目。同じ蓮ノ空の制服に袖を通す前から、私たちのことを助けてくれた眼。
「……まあ、悩み事というか、考え事というか。折角なら、聞いてくれる?」
「勿論。吟子さんには早く元気になってもらわないと、こちらとしても張り合いがないからね」
「嬉しいような嬉しくないような……。……ねえ。泉さんってさ、瑞河を出るとき、どう思った?」
別に、その好意を無下にする理由もなかった。最後の答えはやっぱり自分で見つけたかったけれど……誰かとこうやって話さないと、どんどん深みに嵌っていくような気もしていて。だから、相も変わらずそんなどこかずれた質問を投げた。瑞河の質問を投げたのは……この痛みの名前を泉さんが持っていればと、ほんの少し願ってしまったからだろうか。
「瑞河を出た時、か」
「……ごめん。言いにくかったら、無視してくれてもいいから」
「いや、大丈夫だよ。……そうだな。率直に言うのなら、少しばかり寂しかったよ」
「えっ、そうなの?」
「意外かい?」
「いや、そんなことはないんだけど……」
なんとなく、もう少し着飾った言葉が来るものとばかり思っていた。そういえば、唐突に素直な言葉をぶつけてはセラスさんを困らせるような人でもあったっけ、この人は。
心外だなぁ、なんて言いながら泉さんは笑う。手元に残ったもう一つの缶を開けながら、静寂が包むこの部屋に、彼女は一つずつ言葉を積んでいく。
「私は、夢を追いかける人の姿を見るのが好きなんだ」
「そういえば、入部した時もそんなこと言ってたっけ」
「ああ。そしてそういう意味で瑞河は、蓮ノ空に負けないくらいたくさんの夢が巡る場所だった。『廃校阻止』という大目標の中を皆が駆ける姿は、必ずしも明るいものばかりではなかったけれど……私にとってはそれでも他の景色に負けないくらい、素晴らしいと思えるものだった。その先頭に立っていたのはセラスだけれど、彼女だけの輝きでも決してない。瑞河女子高等学校は、確かに私の想いに応えてくれる場所だった」
「……」
「そう、……だから、かな」
「そんな場所を去るときはね。……夢から醒めてしまったような、そんな喪失感に襲われるんだ。これまでも何度も繰り返してきたことのはずなのに、ね」
「夢から、醒めるような……」
「だからこそ、またそんな景色を見るために蓮ノ空に来たのだけどね。お陰でまた退屈しない日々を送れてるよ」
……それは、また繰り返しになってしまうんじゃないの?
そんな考えは、口にはできなかった。壁の向こうをぼんやりと見つめる泉さんが今何を考えているのか、私には、全部は理解できなかったから。きっとこれは、泉さん自身の問題だ。きっと、泉さんと……ずっと一緒にいた、セラスさんだけが向き合える問題だ。今の私には、触れる資格のない話だ。
だから代わりに自分の心に目を向けることにした。……夢から醒める、か。確かにさっき夢から醒めた時も、なんだかどうしようもない寂しさがあった。
私は、夢みたいな日々にいたかったのだろうか。
確かに、皆で立ったステージは、夢のような場所だったけれど。
「なんだか、しっくり来てないみたいだね」
「……ごめん。泉さんのお陰で、何かを掴めそうな感覚はあるんだけど」
「いいんだよ。吟子さんの問題は、吟子さん自身が向き合って解決すべきだからね。少しでも助けになれたのなら、私としてはそれだけで十分さ」
私はあの日々に、何を見出していたんだろう。
最後に残ったそんな思考を、ドアの向こうから聞こえる喧噪がかき消していく。すべてが飛んでいってしまわないように、ほんのちょっとの息苦しさを、僅かに残ったスポーツドリンクで流し込んだ。
【10】
「……ねえ、吟子さん」
「どうされましたか、梢先輩」
「吟子さんは何か、他にやりたいことはないの?」
「やりたいこと、ですか?」
「ええ。お出かけだとか、それこそライブだとか……。ここは貴女の夢なのだから、望めばなんだってできるのに」
「それは、そうですね。確かに何か違うこともした方がいいのかも……」
「……いえ。でもやっぱり、このままがいいです。このまま、先輩とお喋りしてたいんです」
「……そう。分かったわ。それじゃあ、もうしばらくこのままでいましょうか」
「はい。あっ、でも……梢先輩の淹れた紅茶は、久しぶりに飲みたいかもしれないです」
「ふふっ。そうね、喋りっぱなしだと喉が渇いてしまうもの。それじゃあ、それも準備しましょうか――」
【11】
「吟子ちゃん! 進捗どうですか!?」
練習終わりの帰り道、突然かけられたそんな声に思わず身体が跳ねる。振り向けばいつも通りニコニコ元気な小鈴が、その牡丹色の瞳を輝かせていた。……なるほど、締切間際の作家というのは、こういう気持ちなのか。できれば知らないまま人生を終えたかった気持ちはある。あまりにも心臓に悪い。
「ぼ、ぼちぼちかな……。というか、小鈴も私が小説書いてること知ってるんだ」
「うん! セラスちゃんから教えてもらったの! すっごく心配してた!」
「あの、今度会った時でいいからさ、セラスさんに『そんなに心配するなら直接声掛けに来て』って伝えといてくれない?」
進捗は、良いか悪いかで言えば悪い。
とはいえ全く進んでいないというわけでもなく、むしろほとんどのシーンは既に書き上げているのだ。まだ埋められていないのは、最後のシーン。月の裏側でお別れをする、そのラストシーンだけ。
そのラストシーンだけがいつまで経っても書き上げられない。泉さんとの話を通して、確かに何か分かりそうな気がしたのだけれど……その何かを形にする、最後のピースがいつになっても見つけられない。
「小鈴は、小説とかって書いたことあるの?」
「小説はないけど、映画の台本なら書いたことあるよ! 合宿の映画の続きがいつでも撮れるように、花帆先輩と慈先輩に手伝ってもらいながら書いてみたんだ!」
「そうなんだ……じゃあ、文章に関しては小鈴の方が先輩だね」
「そ、そんな! 徒町地の文とかは全然書けないし、小説頑張ってる吟子ちゃんの方がすごいよ!!」
相変わらず他愛のない会話を交わしながら、寮まで続く道を歩く。……こうなったら、小鈴にも一つ聞いてしまおうか。瑠璃乃先輩や泉さんに助けてもらいながら、小鈴を頼らないというのも、なんだか変な話だし。
「小鈴は、綴理先輩のいないDOLLCHESTRAには慣れた?」
「えっ!? ぜんっぜん!! 『綴理先輩ってすごい人だったんだなぁ』って毎日さやか先輩としみじみ言ってる! あと褒めてくれる人が減ったからすごく寂しい!!」
「そうなんだ。でも、時々会いに行ってるんでしょ? さやか先輩と一緒に作り置きも作ったりしてるし」
「うーん、確かにそうなんだけど……でも、やっぱり蓮ノ空にいた時とは全然違うよ。いっぱいお話できるわけでもないし、全然時間も足りないし……」
……まあ、そういうものか。同じ学校・同じ寮で暮らしていた時と比べて、当然取れる時間は全然違う。関係性そのものは変わらなくたって、昔と全く同じようにとは……いかなく、て……。
「それにね」
私をよそに、小鈴はもう一つ言葉を重ねる。
「綴理先輩に会いに行く前の日ってね、『楽しみ!』ってだけじゃなくて、なんだかちょっとだけ胸がきゅうってなるんだ」
「会う、前から?」
「そう! 先輩方が卒業しちゃった時の感じにも似てるんだけど……。会った後お別れするときなら分かるけど、って吟子ちゃんも思うでしょ? でも、会う前、明日は綴理先輩に会えるんだ!って思いながら布団に入ってる時も、ちょっとだけ、寂しくなっちゃうんだ」
遠い星空を見ながら小鈴は呟いた。その瞳は、部室で見た泉さんとも同じものに見えた。考えていることは2人違うのだろうけど……見えているものは、多分同じものだ。
「なんで、会う前からあんなに寂しくなっちゃうんだろう」
「……ごめん、私にも分からない、けど……」
その答えはきっと、私が求めている答えでもある気がして。
小鈴の視線を追った先で、丸い月が静かに浮かぶ。
2人が見ていたその景色が、私の目にも、ちらりと映った。
【12】
もう一度、机に向かい合う。
目の前には、散々見慣れた真っ白な原稿。
一時はトラウマになりかけた白色を前にして、それでも今なら、最後まで書ける気がした。
答えはまだ、完全には出ていないけれど。
お姫様の正体も、海月の正体も、最初から分かってた。
だから、私の書くこの物語が全ての答えだ。
行き着く先は海月が教えてくれる。
ねえ、海月さん。
私たちは結局、どうしたかったんだろう?
【13】
――そうしてくらげとおひめさまは、ついに月の向こう側へとたどり着きました。
きらめく黄色い月と、ずいぶん小さくなってしまった青い星。そしてそのさらに向こうから、少しずつ太陽が昇りはじめてきていました。……最後の夜の、終わりが近づいているのです。
まだまだ話したいことはあったけれど、これだけは、くらげにもおひめさまにもどうしようもないことでした。
「大丈夫。ちょっとの間だけお別れするだけですよ。また夜が来たら遊びに来てください。あなたの作ったこのロケットならば、きっとすぐに来れるでしょうから」
おひめさまは少し寂しそうに、だけど力強くそう言いました。とても、優しい声でした。
「それに会えない時だって、わたくしはこの月からあなたを見守っています。心配することなんて、何もないのですよ」
そう。きっとおひめさまの言う通りなのです。おひめさまの姿が、ほんの少しだけ、空に浮かぶきれいな月になる、たったそれだけのお話なのです。
だから、くらげは――。
【14】
そう、だから。
だけど。
海月は。
私は――。
【15】
「——行かないで——!」
無重力の中で、私は先輩の両手を握っていた。拭うものを失った涙が、溢れるたびに宙に浮いて、ロケットの中に星を作っていく。
「見守ってなんてなくていい! 『かけがえのない日々』なんてなくていい! だから先輩……ずっと、ずっとそばにいてください!! ただ、今日も、一緒にいてください……っ!!」
私は。……私たちはただ、あの「日常」が恋しかったんだ。
9人で過ごしていたはずの日々が、梢先輩と過ごしていたはずの毎日が、8人の日々に、梢先輩のいない毎日に変わっていく。当たり前にできていたお話が、時間を作って電話を繋ぐ、そんな特別な時間に変わっていく。そうして先輩と過ごした何気ない時間が、少しずつセピア色の、「かけがえのない時間」に変わっていく。
梢先輩とお別れすることが怖かったんじゃなくて。
梢先輩が、私の手をすり抜けて「特別」に変わってしまうことが怖かったんだ。
梢先輩に繋がる全てが、普通じゃない特別に変わっていってしまう、ただそれだけが、嫌だったんだ。
「……ごめんなさい、吟子さん。そのお願いにだけは、応えられないの」
夢の中の梢先輩は、それでも悲しそうな顔でそう言った。ゆっくりと両の手は解かれて、自由になった先輩の右手が私の涙を拭う。
「……嘘つき……私の夢だから、望めばなんでもできるって言ったのに……!!」
「……そうね、私は確かにそう言ったわ。だからつまり、これは貴女自身がちゃんと理解しているということ。時計の針は戻せないと、心の底では貴女も分かっているから。……吟子さんは、とても強い人だもの」
「強くなんて、ないです……」
強くなんて、あるものか。私なんて、必死に強いふりをしてるだけだ。
DOLLCHESTRAやみらくらぱーく!は、失った穴を飛び越えるために、あるいは埋めるために必死にもがいてる。Edel Noteの2人だって蓮ノ空という新天地の中で必死に生きようとしてる。花帆先輩なんて、そんな皆をなんとか引っ張っていこうと歯を食いしばってて……。
強い人っていうのは、そんな皆のことを言うんだ。内心で過去に縋り続けてる、私なんかのことじゃない。
「いいえ、それでも、貴女は強い子よ」
それなのに梢先輩は、そう言って笑ってくれるのだ。自分の涙も放ったまま、私の涙を拭ってくれるのだ。……夢の中でだって鮮明に描けるほど、先輩はずっと、そうしてくれたから。
「誰よりも伝統を愛する貴女だから。誰よりも歴史というものを重んじる貴女だから。後戻りできない日々が、変わってしまったかけがえのない特別こそが、やがて地層となって歴史を作るのだと。その営みこそを伝統と言うのだと、貴女はちゃんと知っているから。……だから、私はもう、貴女に何もしてあげられないの」
……ああ、そうか。
結局私は最初から、全部分かってたんだ。
分かってたけど……それでも、もう少しだけ夢に縋っていたかったんだ。
宇宙船が、少しずつ泡になっていく。役割を終えた箱庭が、少しずつ弾けては星くずになっていく。
煌めく月を背に私を見つめる梢先輩は、本当に、本当に、綺麗だった。
「——さあ、往きなさい、吟子さん!」
少しずつ身体が地球の重力に引かれて。
「過ぎてしまった過去に私はもういないの! 貴女が進む未来の先で、私たちはずっと貴女を待ってる!!」
梢先輩の手が離れていく。月の重力に引かれて、先輩の姿が遠くなっていく。
「変わってしまうものは多いでしょう! 思い出でしか語れない日々を、歯痒く思うこともあるでしょう!」
……もう、これ以上は泣いてられない。涙を拭ってくれる手は、もう届かないのだから。
「それでもただ歩みを進めなさい! 進むべき道は、尚変わらない景色と、数多の出会いがきっと示してくれるから!!」
だから私は今度こそ進むんだ。
「そうして貴女が未来を進んで、私たちの景色に追いついたなら——!!」
変わってしまった傷を抱えながら、それでも前に進むんだ!
「——その時はまた、あの頃みたいに3人でお茶しましょう。そうして初めて気付く、変わらない味があるはずだから」
そう、だから——!
【16】
「——さようなら、梢先輩」
私はまだ、月の裏側へは行けないから。
私はもう、思い出の貴女には出会えないから。
【17】
——懐かしい匂いがした気がした。
いつかと同じ、優しい匂いがした気がした。
そんな匂いにつられてぼんやりと目を覚ます。相変わらずの部室の景色。どうやら朝練前に寝てしまっていたらしい。
寝ぼけ眼のまま視線を横に向ければ、なんか頓珍漢な格好をしているセラスさんの姿。誕生日に被るとんがり帽子と鼻眼鏡、手に持っているのはクラッカー……?
「セラス、さん……?」
「あっえっと違うんだよ吟子ちゃんパイ。別にクラッカーの音で起こそうとかそんなこと思ってたわけじゃなくて」
「あれ、吟子ちゃん起きた?」
私の名前を呼びながら、今度は花帆先輩が奥から出てくる。持っているトレーには、3つのティーカップと、ティーポット。花帆先輩が梢先輩から受け継いだ、大切な宝物。
「あたし達が無理言って小説なんて書かせちゃったせいで疲れてるだろうから、今日は朝練やめてゆっくりしようって思って! せっちゃんがお茶菓子も持ってきてくれたんだよ!」
「は、花ちゃん! それは後でサプライズで出すつもりで……!」
「え、ええっ!? そうだったの!? ご、ごめん吟子ちゃん、今の聞かなかったことにしてくれる!?」
慣れ親しんだ紅茶の香りが私を包む。梢先輩じゃなくて、花帆先輩が淹れた紅茶の香り。……前に進んだ私が手に入れた、新しい日常。
「……っ……!」
「えっ!? ぎ、吟子ちゃん!?」
「ぎ、吟子先輩!?」
泣かないって決めたはずなのに、またぽろぽろと涙が溢れてきてしまった。何も分かってない花帆先輩とセラスさんが途端に慌て出す。
「う、嘘嘘! 聞かなかったことになんかしなくていいからね!? いっぱい食べていいからね!! そ、それとも今日コーヒーの気分だった!?」
「ぎ、吟子先輩! お茶菓子ほら、ほらお茶菓子いっぱい持ってきてるから!! ご、ごめんなさいこの格好も、からかうつもりじゃなくて本当に先輩に笑ってほしかっただけで!!」
「ねぇ、2人とも」
「「は、はいっ!!」」
「2人は、まだ私と一緒にいてくれる?」
少しずつ覚醒してきた頭を回しながら、ああ、また脈絡のない質問をしてしまったな、なんて思った。
案の定、突然の質問に2人はお互いに顔を見合わせて。
「「もちろん!」」
躊躇いなく、そう言い切った。
「まだまだ吟子ちゃんとやりたいこと、いっぱいあるんだもん! もっともっと一緒に花咲いてみせるんだから!!」
「まだまだ吟子先輩にぶつけてないネタも教えてもらわなきゃいけないこともいっぱいあるから。むしろ離れろって言われてもくっついててあげるからね」
……そっか。
それなら、安心かな。
「うん。あんやと、2人とも」
「……? よく分からないけど、吟子ちゃんが元気出たなら良かった! あ、今紅茶淹れてあげるね、今日は特に上手に淹れられたんだ〜!」
「その前に花帆先輩、2つだけいい?」
「へ? こ、今度は何?」
「小説、書けたよ。……ちょっと、子供っぽい作品になっちゃったけど」
お茶しながらでいいから、読んでもらえると嬉しい。
そんな私の言葉を受けた2人は、もう一度顔を見合わせて……今度はその瞳をめいっぱいに煌めかせた。
「本当!? すごいすごい、よく頑張ったね吟子ちゃん!! 大切に読ませてもらうね!!」
「まさか本当に完成させるとは……流石じゃな吟子……」
「セラスさんも、しきりに心配してくれてありがとうね」
「えっ。な、なんでそれを」
「泉さんと小鈴から聞いた。今度から相談する相手は選んだ方がいいよ」
「う、うあああああ!! ち、違うから! いや違くはないけど、あああああ泉〜っ!!」
顔を真っ赤にして弁明にもなっていない弁明を展開するセラスさんをよそに、花帆先輩へ完成した原稿を渡す。代わりに受け取ったフレーバーティーは、やっぱりよく見慣れた色をしていた。
「あれ? でも吟子ちゃん、言いたいことって2つあるんだよね? 小説と、あともう一つは?」
「そうだね、もう一つは……夏休みに、梢先輩に会いに行きたいなって」
「えっ、梢センパイに?」
「うん。久しぶりに会えたらって思って。……ダメ、かな」
私からこういう提案が出てくるとは思っていなかったのだろう。一瞬目をぱちくりとさせた花帆先輩は、だけどすぐに満面の笑みを浮かべてくれた。
「ううん、いいと思う! それじゃあ、夏休みで会いに行っちゃおうか!」
「うん、行こう。……えっと、梢先輩には私が連絡した方がいいかな」
「あたしがやってもいいけど、吟子ちゃんが大丈夫ならその方がいいかも? 吟子ちゃんが持ってきたお話だし、それに梢センパイもそっちの方が喜ぶと思うな!」
「分かった、じゃあ私から連絡するね。……セラスさんはどうする? 一緒に行く?」
「う、ううん、わたしは大丈夫。流石のわたしにもスリブ水入らずを邪魔しないくらいの良識はあるから。その代わり、お土産は3倍返しでよろしくね」
「はいはい。何を3倍すればいいのかはよく分からないけどね」
そんな日常を過ごしながら、梢先輩の姿に想いを馳せる。
話したいことは、今ならたくさんある。特別なことから取り留めのないことまで、いくらでも。きっと全部を話すには足りなくて、最後には限りある時間を口惜しく思ってしまうのだろう。
だけど、もう大丈夫。そんな「特別」な時間だって同じように愛おしいと、今なら、少しだけ思えるから。
変わらない香りと共に、淹れてもらった紅茶を一口。
窓から差し込む朝日が、ほんのちょっと眩しく感じた。
【18】
——くらげは、いつもの道を散歩していました。
隣におひめさまはいないけれど。だけどくらげはもう水の外でも息ができるし、ぷかぷかと浮いて一人でお散歩だってできます。くらげはもう、海の底で月を眺めているだけではないのです。……全部、おひめさまと、そのお友達が教えてくれたことでした。
おひめさまと過ごす中で、くらげにもお友達がたくさんできました。今日もすれ違う度に、皆とあいさつを交わします。お昼は一緒にご飯を食べよう。学校が終わったら一緒に遊ぼう。今度海の中にも遊びに行くね。くらげは今日も、そんな約束をたくさんしました。
朝の景色の中では、月の姿は見えないけれど……くらげは、今はそれでもいいと思いました。
お散歩の途中、くらげは湖のほとりで、きれいな蓮の花を見つけました。きっと、おひめさまが言っていた蓮の花だと、くらげはすぐに気づきました。
だけど、おひめさまの話とは違うところが一つだけありました。きれいな蓮の花のとなりに、もう一つ小さな蓮の花が咲いていたのです。隣の花よりはまだずっと頼りないけれど、それでも小さな蓮の花は、他の花に負けないくらいきれいな花でした。
「今度、おひめさまにも教えてあげよう」
ふとくらげは、自分が自然と、おひめさまに会いに行く計画を立てていることに気づきました。
それはくらげにとって少し寂しいことではありましたが、ちょっとだけ誇らしいことでもあったのです。
今度また会えた時は、この小さな花のこともちゃんと伝えられるように。
そのためにくらげは——明日からも毎日、この花たちの様子を見に来ることに決めたのでした。
2025/06/08 投稿作品
会いたいのなら、会いに行けばいいのです。
活動記録を開けばいつでも彼女たちの物語を見返すことができます。
漫画に102期活動記録、新たな供給だってたくさんあります。
あの約束があるのだから、この後再び彼女たちが舞台に立つことだって必ずあるでしょう。
それなのに、どうしてこんなにも息が苦しいのか。
「物語の区切り」というそれだけでは説明できない感情に2か月の間向き合って……
きっとそれは、もう「日常」ではないからだと気付きました。
『Moon Travel』は、完全に私自身のために書いた作品です。
別に、やろうと思えばもっとエモい要素や卒業っぽい要素だってたくさん詰め込めたと思います。
多くの人たちにとってより納得できる、感動できる作品に寄せることだって出来た気がします。
だけど、敢えてそういったものからは目を背けて……。
自分の中の感情に向き合うことにだけ集中して、この作品は書きました。
だからこの作品は、 メンバーやキャストのためでも、好き好きクラブのためでもない、私のための作品です。
そんな中でもこの作品を通して救われる人がもし一人でもいるのであれば……。
それは、とても幸せなことだと思っています。
旅立つ人たちにも、残り続ける人たちにも。
どうか等しく、幸せが降り注ぎますように。